『雨弓のとき』 (46) 天川 彩
祥子が娘の真由子を産んだのは、十月に入ってからだった。
「うちの子が、やっぱり一番美人で可愛いね」
新生児室の窓ガラスに、顔をくっつけて覗き込んた良一が言った。
祥子も強く頷いたのだが、同時に笑いが込上げてきた。
「何、どうしたの?」
「だって、こういうのを親バカっていうんだなって思って」
「いや、違うって。本当にうちの子が一番可愛いじゃないか」
良一がムキになるのが、益々可笑しかった。
小さな真由子を抱いて、三人でマンションに戻ると、家の中は大賑わい
だった。この日は、ちょうどお七夜ということもあり、仙台からも良一
の両親や妹の小百合もやってきていた。母の敏子は、エプロンをつけて
張り切って朝から散らし寿司やら天ぷらやらを準備していたらしく、テ
ーブルに盛り付けているところだった。
「おーいよいよ主役登場だな!」
真っ先に玄関に駆け寄ってきたのは、良一の父親だった。もともと細い
目を更に細めて、真由子の顔を覗きこんでいると、良一の母親も飛んで
きた。
「あら、ちょっとお父さん、ズルイわね。先に孫の顔を見るなんて。私
にも見せてちょうだい。真由子ちゃんの顔」
二人が争うように孫の顔を見ていると、横に突っ立っていた良一が言っ
た。
「親父もお袋も、落ち着いてよ。これじゃ、祥子が靴脱いで家に入るこ
とも出来ないじゃないか」
しかし、その声は怒っているわけではなく、嬉しさを隠し切れない声だ
った。
真由子は、リビングの窓際に前もって用意していたベビーベットに真由
子をそっと寝かせて、改めて準備された祝いの席に着いた。
「それじゃ、命名 真由子 でいいんだよな」
良一の父は、何処で準備したのか、半紙と墨と筆を用意して、全員揃っ
たところで、中央に名前と左下に生まれた日を書き込んだ。
「なんだか、こうして儀式じみたお祝いっていうのも風流でいいね」
良一が照れながら言うと、良一の母が真面目な顔で言った。
「儀式じみた、じゃなくって、これもお七夜の儀式なのよ。良一が生ま
れた時だってしているし、きっと祥子さんが生まれた時だって、しても
らっているわよ。ねぇ、そうよね?お母さん」
良一の母が敏子の顔を見た。敏子は、平然とした顔で「そりゃそうよ。
そういうものだもの」と返答した。内心、祥子は敏子がどう返答するか、
この時、急に不安になっていた。が、自分もちゃんと、このように祝っ
てもらっていたのかと思うと、何とも嬉しかった。
「どうして、真由子ちゃんって名前つけたの?」
食事をとりながら、ビールで既に真っ赤になっていた小百合が祥子に聞
いてきた。
「つけたの、良一さんなの」
真由子が生まれた日、病院にやってきた良一が、顔を見るなり開口一番
に「この子の名前、真由子にしよう」と言ったのだ。祥子は「高梨真由
子」と呟いてみて、いい名前だと思ったので反対もしなかった。が、な
ぜ、と質問されて、改めて自分も良一に聞いてみたいと思った。
「え?真由子って付けたのは、真っ直ぐ自由に生きて欲しいって意味も
あるんだけど、まことのおおもとを生きる子になって欲しいとも思って
ね」
「え?まことのおおもと?何それ」
「だから、真由子の真はまことでしょ。由って文字にはおおもとって意
味もあるんだ。まことのおおもと。なんか凄いでしょ」
「お兄ちゃん、ほんと凄いよ。真由子ちゃんって名前、凄くスケールが
大きいし格好いいよ」
祥子も驚いた。そんな意味があって付けていたとは知らなかった。
「本当にいい名前ね」
良一の母も、命名と書かれた半紙を見とれながら、呟くように言うと、
良一が頭を掻きながら苦笑いした。
「いや〜。なーんちゃってなんだ。実はさ。初めて顔を見た時、なんだ
か真由子って顔しているな、なんて思って。祥子に言ったら、名前の響
きがいいね、なんていうしさ。それで真由子って決めたんだけど、改め
て文字にして書いてみて、意味を調べていたら、俺も感動しちゃって」
「なんだ。やっぱりね。お兄ちゃんが最初から、そんなに学があるとは
思っていなかったから、ビックリしちゃった」
皆が一斉に大笑いしたので、驚いた真由子が泣き出した。
つづく…