『雨弓のとき』 (44) 天川 彩
陽が少し傾いてきたからだろうか。神社の境内のベンチには、子ども連
れの若い母親やら、老夫婦やらが、穏やかな面持ちで語らっていた。
「なんだか、みんな平和そう…。いいな」
明日香が、歩きながら祥子にポツンと言った。祥子は、お参りをしてい
た時の明日香の様子が少し気になっていた。やけに手を合わせている時
間が長かったのだ。その姿はまるで父の病気が発覚した時の、母の敏子
の姿のようだと、何処かで薄っすら思っていた。そこに、今の一言。祥
子は明日香の顔をマジマジと見た。
「な、何よ」
「明日香、何かあった?」
「ん?あ、いや…別に。たいしたことじゃないし」
「やっぱり。どうしたの?私でよかったら聞くけれど」
「う〜ん…」
千駄木のレトロな喫茶店では、静かにオールドジャズが流れていた。
今時、何処も使っていないような大型のクーラーがガーガーと音を鳴ら
して、店全体を冷やしている。
マスターが注文したジュースを運んできながら、ニコニコと話しかけて
きた。
「随分見ないうちに、お腹大きくなったね。確かもうすぐだったよね」
「来月なんです。もうお腹が苦しくって」
マスターは、祥子の向かいに座る明日香の顔をチラッと見ると、「寒か
ったら言ってね。クーラーの温度下げるから」と言いながらカウンター
の奥に入っていった。祥子は、マスターの心遣いが嬉しかった。
「で、どうしたの?」
「いや、だから…たいしたことじゃないんだけど」
「けど、どうしたのよ。いつもの明日香らしくないし」
「もうすぐ赤ちゃんが生まれるって、幸せな祥子に話すような内容じゃ
ないんだけどね」
「そんなこと、気にしないで。悩んでいる時に話せてこその親友じゃな
い」
「ありがとう。実はさ、先週まで熊本の実家に帰っていたんだ」
「阿蘇だったよね」
「うん…。私のところ三人姉妹なの知っていたよね。真ん中の姉は、O
Lしているんだけど、上の姉は結婚していて、専業主婦しているの。そ
の姉が、離婚するらしんだ」
「離婚…」
「姉の家族って私の憧れのような家族だったの。まだ幼稚園にも入らな
い子どもが、二人もいるんだけど、お義兄さん子煩悩だし。まさかって
感じなんだ」
「原因は?」
「それが、お義兄さんの浮気なんだって。会社の部下の人らしいんだけ
ど、世の中によくある、お決まりのってヤツかな。お義兄さんは、そん
なタイプの人じゃないって思っていたから、何だかショックで」
「…」
「お義兄さんは、懸命に謝ったらしいんだけど、姉はどうしてもダメら
しくって」
「でも、謝るってことは、本気じゃなく、浮気だったんでしょ」
「私もそう言ったんだけど、姉は悲しいらしいのよ」
「そりゃ、そうだろうけど」
「でも、その部下の女の人も、一緒に謝りに来たんだって」
「ふ〜ん、一緒にねぇ」
「姉にいわせると浮気そのものより、一緒に謝りに来たことが悲しかっ
たんだって」
「なんだか私、わかるような気がする」
「え?そう?だって自分の旦那も、浮気相手の女の人も一緒に謝ってい
るんでしょ。それじゃ許しちゃえばいいじゃない」
「多分さ…許すとか許さないとかじゃないと思うよ」
「何で?」
「だって、一緒に謝るって、その二人の絆のようなものを感じない?」
「絆?」
「姉とお義兄さんの方が、れっきとした夫婦の絆があるじゃない」
祥子はしばらく考えた後、口を開いた。
「なんだか、うまく説明できないけれど…私の両親、離婚していたの知
っているよね」
「うん…」
「うちの両親は、同じように父の浮気が原因で離婚して、向うに子ども
が出来たからって理由で、その女の人と再婚したんだけど。どうやら、
結局は母との絆の方が強かったみたいで。最期は母のもとで安らかに逝
って、なんだか父も母も幸せそうだった」
「そう…なんだ。それが姉がね。姉が、言うのよ」
「何て?」
「今になって思うと、最初から愛していなかったかもって」
「えっ?!それじゃ、なぜ結婚したの?」
「私も同じこと聞いたんの。そしたら結婚したかったからだって。お義
兄さんと出会った時には、三十歳を越えていて、周りもどんどん結婚し
ていくし、地元ではそこそこ名の通った企業にお義兄さんが勤めていた
こともあって、この人となら結婚したら幸せになれると思ったらしいの。
家も建てて、子どもも二人生まれて、自分は幸せな部類だと思っていた
ところに、突然、お義兄さんの浮気発覚」
明日香はそういうと、目の前にあったコップの水を一気に飲み干した。
「普段から、仕事が忙しいって言っていたらしいの。だから、休日出勤
って言われても疑いもしなかったらしいんだけど、ある日、子どもが急
に高熱を出して、病院に連れていくのに会社に電話をかけたら『今日は
お休みです』って本当に休日に出勤している人に言われちゃったんだっ
て。家に帰ってきてから問い詰めたら、すぐに白状したんだって」
「隠しもしなかったんだ」
「それが誠意なのか、何なのか…。とにかく知った時には半狂乱だった
らしいんだけど気持ちが落ち着いてきたら、なんだか妙に冷静になって
きたって言っていた。私や真ん中の姉にね、愛していると心から思える
人以外とは結婚するなって」
「あっ…それで、さっき私におかしなこと聞いたんだ」
祥子の言葉が耳に入らなかったのか、明日香はそのまま喋り続けた。
「私から見たら、姉とお義兄さんは、愛し合っている仲の良い夫婦に思
えたんだけどな。よく家族揃って遊園地に行ったり、買い物だっていっ
つも仲良く行っていたし。そんな二人が浮気だの慰謝料だの、養育費だ
のって恐い顔して罵り合っているのが、あまりにも悲しい気がして」
そういうと、明日香は言葉を詰まらせて、ポロポロ涙をこぼした。
祥子は、そんな明日香にどう返答していいのかわからず、テーブルの上
に置かれた手を優しくさするしかなかった。
つづく…