『雨弓のとき』 (43)                天川 彩


第10章

その年は夏が過ぎても、まだ暑い日が続いていた。
祥子のお腹は、はち切れんばかりに大きくなり、呼吸をするのもやっと
という感じだったのだが、予定日までは後一ヶ月近くもあった。

「随分、大きくなったわね」
九月に入っても、まだしばらく大学の夏休みが続いていた明日香が、こ
の日、遊びに来ていた。

「うん。最近は夜寝るときも苦しくって。上向いて寝れなくなってきち
ゃった」
「え?それじゃうつ伏せで寝ているの?」
「まさか。横向いて寝ているんだ。それに、お腹の赤ちゃん冷やしちゃ
いけないと思って、夜は出来るだけクーラー止めているんだけど、ずっ
とこの暑さでしょ。とうとうお腹の下にアセモが出来ちゃって。痒くっ
て」
「お腹の下に?」
「お腹の下にアセモなんて、考えられなかったけれど。ほら。こんなに
お腹が膨らんでいるんだよ」
祥子はそう言うと、明日香の手を取って、そっと自分のお腹にあてた。

「うわ〜。感動。なんだか、モゾモゾ動いている」
「でしょ。わかる?ここ、多分そこカカトだよ」
「凄いね。それにさ…」
明日香は、お腹を触っていた手を離して、祥子の目を真っ直ぐに見た。
「な、何よ」
「いや、祥子がぐっとお母さん顔になったな、と思って」
「えっ?そう?」
「うん、確かに変わったよ」
「まぁ、そう言われたらそうなのかも。この子産んだら、もっと変わっ
ていくのかな」
「そうだよ。もっとお母さんの顔になると思うよ」

明日香は純粋な気持ちで、そう言ったのだったが、祥子は複雑だった。
確かに、もうすぐ母親になる。良一との暮らしの中では、毎日が幸せに
満ちて、それを不満に思うことなどは無い。が、まだ21歳なのだ。目の
前に、祥子と同い年で、益々最近綺麗になっていく明日香を見ていると
祥子の心に少し寂しい風が吹いていた。

「明日香の方はどうなの?」
「どうって?」
「いや、学校のこととか、就職とかさ」
「まぁ、相変わらずよ。来年はいよいよ就活だしさ。狙いは絞ってきて
いるんだけどね」
「やっぱり広告代理店?」
「まぁね」
「そっか…そうだよね」
祥子の沈んでいく声には、明日香は気づかず、話を続けた。
「でもさ、今は恋がしたいなって思うんだ」
「え?あの彼は?」
「どの彼?」
「そうか。そうだよね。明日香は、いつもモテモテだから。恋なんか、
いつもしているじゃない」
「いや、それがちょっと違うんだよね」
「違う?」
「何ていうのかな。やっぱり今までの彼氏って、まぁ、たいして好きで
もなかったけれど、見てくれが格好イイとかさ、結構、遊ぶお金持って
いる、とかさ。私のことを好きだって言ってくれる人だったら、条件が
よければ、それなりに付き合ってきたけれど…。でも、そんなんじゃな
い、本当の恋がしたいんだよね」
「本当の恋?」
「愛し合える関係」
「え?今までの彼氏、誰も愛し合ってこなかったの?」
「ねぇねぇ。祥子はさ、良一さんのこと愛してる?」
「イヤダ〜。何、今さら聞いているのよ。そんなの当り前じゃない!」
「でしょ…」
「?」
「だから、そうやって、迷わず言えるような人と出会って、本気で恋を
したいと思う訳よ」
「なるほど」
「でも、そう思った途端、簡単に恋が出来なくなったというか、臆病に
なったというかさ。本当にその人のことを、自分が好きになって、愛せ
るのかと思うと、疑問を感じちゃったり。もしかすると、私にはそんな
人現れないんじゃないか、とかね。それが今の私の悩み。なんか、祥子
が羨ましくって」
「そんなことないって。私…」
私の方こそ明日香が羨ましい、と言おうとしていた。が、お腹の子ども
がズクンと蹴飛ばしてきたので、祥子はドキンとした。
「え?」
「ううん。私…私は明日香にも必ず、そんな人が現れると思うよ」
「ありがとう」


窓辺の真っ白なレースのカーテンがふわりと揺れた。
「あ、いい風」
祥子が、ソファーからゆっくりと立ち上がり、窓の外を眺めた。良一と
付き合い始めの頃、よく通っていた根津神社が見える。
「ねぇ、明日香。これから根津神社に行かない?」
「神社?」
「私、好きなんだ。考えたら、明日香と一緒に行ったことないよね。し
ょっちゅう前のアパートに泊まりに来てくれていたのにさ」
「確かに、行ったことないかな。根津神社ってさ、祥子が良一さんとよ
く待ち合わせていたって場所だったよね」
「そう。今も彼が休みの日なんかには、よく一緒にお参りに行くんだ。
ね、少し涼しくなってきたし、行かない?」
 
                         つづく…