『雨弓のとき』 (42)                天川 彩


夜、マンションに行くと、良一はリビングのソファーでビールを飲みな
がらテレビを見ていた。
「あれ?今日は早かったのね」
「取引先に朝から直行していたんだけど、ちょっと疲れたから、今日は
早めに帰ってきたんだ」
「そうなんだ」
この週末には、祥子の荷物は全てこの家に運び入れる予定だ。そうした
ら晴れてこのマンションが二人の新居になる。しかし祥子の引越しが完
了するまでは、何となく落ち着かなかった。
「ごめんね、ご飯。今日も遅いと思って。これから準備するから」
「今日は外で何か食べようか。祥子ちゃんも、あっちの部屋の整理で疲
れただろうし」
「ううん。良一さんがまだお腹大丈夫なら、今から作るから」

そういうと、祥子は台所に立ち、エプロンをつけて手際よく料理を始め
た。良一は、そんな祥子の姿を見ているうちに、たまらなく愛おしく感
じ、そっと祥子の後ろに行くと、ギュッと抱きしめた。

「ちょ、ちょっと危ないって」
祥子は慌てて、手に持っていた包丁をシンクタンクの中に入れた。そし
てエプロンで手を拭いてから、クルッと良一の方を向き直した。良一は
祥子の瞳を見つめると再び強く抱擁し、そしてフワッと抱きかかえると
寝室の前まで歩き、片足でドアを蹴飛ばして、祥子をベッドの上にそっ
と置いた。

「ダメだって」
祥子が甘えた声で言ってみたのだが、良一は「赤ちゃんがビックリしな
いようにするからさ」と言いながら、祥子のブラウスのボタンを既に全
開にしていた。


祥子は、隣で眠っている良一の長いまつ毛を触ってみた。
まるで女の子のようにクルンとカールがかかっている。少し太めの眉毛
に筋の通った鼻。整った唇。良一の顔のパーツパーツにそっと手で触れ
ながら、お腹の子どもは、良一に似ているのだろうか、と思ってみた。
「ん?あ?寝ちゃったみたいだね」
「疲れているみたいね。終わったら、さっさと寝ちゃった…」
「ゴメン。ここのところ忙しくってさ」
「いいよ。お仕事頑張ってくれなきゃ、パパになるんだし」
「そうか。そうだよな。パパになるんだよな」
良一は、再び祥子の下腹部を触った。しかし、それはさっきまでの触り
方とは全く異なるものだった。

「何だかさ、今まで全く経験したことのないものを、感じるんだよな」
「何?それ」
「いや、祥子ちゃんのことは、勿論、世界一愛しているんだけどさ、今
このお腹に当てている手は、違う愛なんだよ」
祥子は、お腹を触っていない、右手を自分の頬に当てて、
「こっちの手は、私への愛。そして…」
今度はお腹の上に置いている左手を触って
「こっちの手は、この子への愛」

「そうなんだよ。で、その全部をひっくるめて、俺は守るんだって強く
思うんだよな」
そう言うと、良一は祥子を再び後ろから、そっと抱きしめた。
祥子はコクンと頷いた。

「ありがとう。さ、お腹空いたでしょ。すぐに、ご飯支度の続きするか
らね」

祥子はベッドからスッと抜けると、さっさと洋服に着替えて寝室から出
て行った。良一は、何ともいえない思いが湧きあがり、しばらく寝室の
天上をボーッと見つめていた。

                         つづく…