『雨弓のとき』 (41)                天川 彩


「ねぇ、あの箱の臍の緒お母さんじゃない。私のって取ってあるの?」
思えば、祥子は幼い頃からお婆ちゃん子で、母との思い出は希薄だった。
母と自分を結びつけるものなど、興味すらなかった。しかし、この日は
なんとなく気になった。
「祥子の臍の緒?当り前じゃない。取ってあるわよ」
「そ、そうなんだ」
自分で質問しておきながら、母の『当り前じゃない』という返答に祥
子はちょっと驚いた。そうなのか。臍の緒を取っておくのは、当り前だ
ったんだ…。祥子は、まだ、膨らんでもいないお腹をそっとさすった。
「見たい?」
母親の敏子は、悪戯っぽい目をして、祥子の顔をのぞきこんだ。

「えっ…。いや、別にいいよ。そんなもの、あるのかなぁなんて、ちょ
っとだけ、思っただけだからさ。別に見たくないし」

口では、そう答えたが本音は見てみたかった。小箱に入っていた母親の
臍の緒は、干からびたスイカのツルのミイラのような、なんとも表現し
がたいものだった。多分自分のも、そんなに変わりはないのかもしれな
い。しかし、子どもをお腹に宿している今、臍の緒が母と子どもを繋い
でいるライフラインなのだと、漠然とながら感じる。実際には、お腹の
中でどう繋がっているのかも、全く想像も出来なかったが、確かにこの
母から生まれてきたのだ、という確信のようなもののように思えた。
「もし、見たかったらお母さんの三面鏡の一番下の引き出しの中に入っ
ているからね。あ、そうそう。それからついでに言っておくわね。その
同じ引き出しの中に、祥子名義の通帳が入っているんだけど、この際、
お嫁入り支度として持っていく?」
「…!」
祥子は驚いて言葉も無かった。
「なによ。そんな顔をして」
母は可笑しそうに、ケラケラ声をたてて笑った。
「だ、だって…そんな話、今まで一度も聞いていないよ」
「だから、お嫁に行く前に。あ、そうか。もう籍入れたから、お嫁にい
っちゃったのか。ま、あなたが大学に入る時か、お嫁に行く時にって、
ずっと少しずつだけど貯めてきたのよ」
「だ、だって…。大学に入った時、そんな話、お母さんしなかったじゃ
ない」
「やだ。祥子。話をするもしないも、あなたお母さんに何一つ相談もし
てくれなくって、勝手に大学決めて。奨学金の話もこのアパートに引っ
越す資金をアルバイトで稼いでいたことも、全く話してもくれなくて、
何でも一人で進めちゃったじゃない。だから、話せるような状況じゃな
かったもの」

母に言われて、祥子は自分の行動を振り返ってきた。確かに高校生の時
の自分は、遅めの反抗期だったのかもしれない。いや、その反抗期は随
分長い間、続いたように思う。良一と出会わなかったら、母と、今こう
して正面向き合って話すこともなかったかもしれない。もしかすると、
それは、もっともっと長引いていたかもしれない。しかし、良一と出会
ったことで、母親との長年のわだかまりが、少しずつ解消されていって
いるのは事実だった。

「そう…か。そうだったよね。今さらだけど、長い間、ごめん」
「何言っているの。どうしたの?そんなにしおらしくなって。祥子ちゃ
んらしくないわね。いいわよ。あなたの気持ちは、誰よりも一番よくわ
かっているつもりだから」
「えっ?」
「そりゃ、そうよ。母親なんだから。あなただって時期そうなるわよ」
「私も?」

祥子は、やはりいつか自分の臍の緒を見たいと思っていた。この母と自
分とを繋いでいたものを。

                           つづく…