『雨弓のとき』 (40)                天川 彩


扉を開くと、にっこり笑った母親の敏子が立っていた。いつも見ている
母より、少し化粧が濃く、服装も垢抜けている。それにしても平日の昼
間にやって来たことなど、今まで一度もなかったので、何かあったのか
急に気になった。

「どうしたのよ、こんな時間に」
敏子はややバツ悪そうにしながら、手の後ろに隠していた小さなケーキ
の箱を目の前にチラつかせた。
「ケーキ買ってきたの。陣中見舞いってやつかな」
「何よそれ。第一お母さん、ケーキ嫌いじゃない」
「でも、祥子は好きでしょ。だからショートケーキ一人分」
「何だか変なの。でも、ありがとう。引越し準備で散らかっているけれ
どあがってよ」
「わかっているわよ。引越しの手伝いに来たんだし」
敏子は、玄関をあがると、ぐるりと周りを見回しながら言った。
「あら、随分片付いているのね…」
祥子は台所でヤカンに水を入れながら、テーブルの上に置きっぱなしに
してしまった、臍の緒の箱のことが気になった。テーブルの下には、さ
っき開いたばかりの封印していた箱の一式が、開いたそのままになって
いた。

「お、お母さん、ちょっといい?」
祥子はわざと大きな声で母親を呼んだ。
「どうしたのよ。こんな狭い部屋で大きな声出さなくたって、聞えるわ
よ」
「あ、そうか。ごめん。あのさ…えーっと、お茶とコーヒー、どっちが
いい?」
「何?そんなのどっちでもいいわよ。それより何だか慌ててるわよ」
「そんなことないよ」

祥子は確かに少し動揺していた。何も悪いことをしているわけではない。
しかし、どうにかして、さっきまで開いていた箱の全てを。いや、せめ
て臍の緒の小箱だけでも、何処かに仕舞いこみたかった。
「怪しいな。お母さんは祥子の嘘は、すぐに見破ることが出来るんだか
ら」
「何でもないって。あ、ほら、お湯沸いたよ。で、どっちにするの?お
茶?コーヒー?そうだ、紅茶もあるよ」
「祥子はどっちがいいの?」
「私は紅茶にしようかな」
「それじゃ、お母さんも紅茶にするわ。そうだ、入れてあげるから、祥
子は引越し作業の続きしたらいいわよ。紅茶は確か、この奥だったわよ
ね」
そういうと、敏子は台所で紅茶の準備をし始めた。祥子は、ほっと胸を
撫でおろすようにテーブルの上に置きっぱなしにしていた臍の緒の小箱
をさっと手の中に納めると、下に置いていたダンボール箱に素早く入れ
ガムテープで封印した。

紅茶を飲みながら、母と平日の昼下がりにお喋りをする。そんな時間は
今まで一度たりともなかったように祥子は思った。
「会社は、どうしたの?」
「半休とったの」
「どうして?」
「あまりにも急な話だったから、娘の結婚準備も、何もしてあげられな
いし。せめて、引越しの手伝いとかしようかと思って来てみたんだけど。
随分、片付いているわよね」
「だって、ほとんど物らしい物、持っていないし」
「そうか…。ねぇ、結婚のお祝いに欲しいもの、何かない?何かお母さ
んからお祝いあげたいんだけど」
「え〜、お祝いか。嬉しいけれど今は思いつかないな。良一さんのマン
ションに、ほとんど何でも揃っているから」
「そう…よね。よかったら、今日どこかお買い物に行かないかな…なん
て思ったりもしていたんだけど。無駄なもの買ってもね」
「ううん、欲しくないんじゃないの。折角結婚のお祝いに買ってくれる
のなら一番思い出に残るようなものがいいかなって。少し考えさせて」

それが、この時の正直な気持ちだった。祥子が目の前のケーキを頬張っ
ていると、敏子がさりげなく口を開いた。

「さっきテーブルの上にあった箱、あれって仏壇の引き出しの奥に昔あ
ったやつよね。ここにあったんだ」
母の敏子は見ていたのだ。あの箱が机の上にあったことも、祥子が慌て
て隠したことも。
「嫌だ、なんだ見えていたんだ」
「だって、この家、玄関の真正面にテーブルがあるし、嫌だって目に入
るわよ。あれ、私の宝物だったんだし」
「え〜?あれってお婆ちゃんの宝物じゃなかったの?」
「お婆ちゃんの宝物であり、私の宝物でもあったの。お母さん、一人っ
子だったし」
祥子は驚いた。祖母の宝物だとばかり思ってあの臍の緒は、祖母と母と
の、共通の宝物だったのだ。祥子は祖母と母との間に入れない、ほんの
少しの寂しさを感じていた。
「ごめんね。私が持ってきちゃっていて」
「いいのよ。お婆ちゃんが亡くなってから、バタバタしていたじゃない。
親戚の伯母さんなんかも来ていたし、お婆ちゃんの遺品整理をした時に
誰かが間違って持っていってしまったかと思ったの。でも、祥子ちゃん
のところにあってよかった」

祥子は、更に複雑な気持ちになっていた。

                           つづく…