『雨弓のとき』 (4)                天川 彩


第二章 

外に出た途端、忘れていた靴擦れの痛みが甦った。長い間座っていたか
ら足が浮腫んでしまったからなのか、夕方よりも痛みが増している。し
かし、そんな痛み以上に、高層ビルの隙間から瞬いている星空や黄色く
色づく街路樹の葉っぱが、祥子の目には綺麗に映っていた。美しい時を
手放すのが惜しくて、深呼吸するような素振りをしながら、祥子はしば
らく立ち止まっていた。
良一は良一で、もう少し祥子と話してみたいと思った。せめて、お茶の
一杯でも誘ってみようかとも思った。しかし「疲れた」と言っている女
の子を、これ以上誘うことに気が引けて、心と裏腹な言葉が出ていた。

「君は、どっちの方向?」
「私ですか?私は地下鉄の千代田線。千駄木っていう駅なんです」
「え?!千駄木?僕、根津だよ」
「うそ。根津ですか?いやだ。隣駅じゃないですか」
「根津神社の近くなんだ」
「私も近いんですよ。なんだ。えー。ご近所さんだ」

それまで止まっていた二人の足が、一気に早足で地下鉄の入り口へと向
かった。並んで歩くと、良一と祥子はかなり身長差がある。コンパスの
違いから祥子は小走りになっていた。
「痛っ!」
地下鉄の階段を降りる手前で、靴擦れの痛みが我慢の限界に達して、足
が急に停止してしまった。

「どうしたの?」
「あ、足が」
「足?」
「今日、新しいパンプス履いてきちゃっていて、実は夕方から靴擦れが
ひどくなっていて…」
「そうだったんだ。大丈夫?ごめんね、気がつかなくて。地下鉄乗れる
?何ならタクシーで帰ろうか?」
「ここからタクシーじゃ遠すぎますから…。ごめんなさい。心配かけて
しまって。大丈夫です」
「タクシー代ぐらいいいよ。払ってあげるから」
「本当に大丈夫です。その代わり、ちょっと改札までゆっくり歩いても
らっていいですか?」
「歩くの早かったかな。本当にごめん。そうだ僕の腕につかまりなよ」
良一はそういうと、すっと自分の腕を祥子の前に差し出した。しかし、
今まで一度たりとも誰とも付き合ったこともない祥子には、恥ずかし過
ぎた。

「いえ。ゆっくり歩けば大丈夫ですから」

やっとの思いで改札をくぐり地下鉄に乗った。が、首都圏の主要路線は
平日の夜でも混みあっていて、座席が一つも空いていない。折角、同じ
方向の地下鉄に乗っているというのに、祥子は痛みに耐えるのに精一杯
で、ほとんど会話らしい会話が進まない。意地を張らず、良一のいう通
りタクシーに乗せてもらったらよかったと後悔していた。隣で、良一が
心配そうな顔をして祥子の方を向いているが、自分でもどんどん顔がゆ
がんでくるのがわかる。口を開くと「痛い」という単語しか出てこない
ような気がして、地下鉄の中で、一言も発することができなかった。気
がつくと、根津の一つ手前の湯島を過ぎていた。次の駅で、良一は降り
てしまう。祥子は自分の情けなさに、がっかりしていた。電車が根津駅
のホームに到着し、祥子が「それじゃ」と言おうとした時、良一にグイ
っと腕を引っ張られ、気がついたら地下鉄から降ろされていた。

「な、何?」
「あのさ、ちょっとこのベンチに座っていて。家からサンダル持って来
るから。すぐダッシュで取ってくるからさ」
「えっ?」

祥子に「えっ?」しか言う隙間を与えず、良一は、弾丸のように早く改
札へ向かうエスカレーターを駆け上っていった。
祥子は腰が抜けたように、ホームの脇にあるベンチに座った。地下鉄の
電車から吐き出された乗客たちは、我先にとエスカレーターで改札階に
行き、誰一人ホームの階には残っていない。パンプスをゆっくりと脱い
でみると、右足の小指の先と左足のカカトの二箇所に水膨れがつぶれ赤
く腫れている。新品の靴に二箇所、血がうっすらと滲んでいた。しかし、
あれほど強烈な痛みを発していた足は、パンプスを抜いた瞬間から嘘の
ように一気に楽になっていった。祥子はバッグの中に絆創膏が入ってい
ないか、ゴソゴソと探してみた。が、見当たらない。しばらく、靴を脱
いだ状態でベンチの椅子からブラブラとストッキングだけの両足を垂ら
して熱を持った足を冷やしていたが、次の電車が滑り込んできたので、
慌てて軽くパンプスをひっかけた。それにしても、この日起こっている
全てのことが祥子には不思議でならなかった。

「ごめん。待たせたかな。こんなのしか無いけれど、いいよね」
息を切らしながら、良一が女性用のピンクのつっかけサンダルを片手に
持って再び戻ってきたのは、ベンチに座ってから三台目の地下鉄を見送
った直後のことだ。
「これさ、お袋が時々上京して、近所のスーパーとかに行く時用のヤツ。
ちょっと格好悪いけれど、これならサイズ関係ないでしょ」
祥子は、コクンと頷いた。お気に入りのワンピースに洒落た小さめのバ
ッグ。足元はピンクのつっかけサンダル。当然、祥子は地下鉄に乗らず、
夜道を歩くという選択を選んだ。地下鉄の中では、靴擦れが痛くて喋れ
なかったが、地上に出ると今度は恥ずかしくて喋れなくなった。

「千駄木のどっち?近くまで送るよ」
「あ、いや…。あの。自分で帰れますから」
「でも、足まだ痛むでしょ」
「大丈夫です」
「そうか。確かに今日初めて会った男に、家の近くまで知られちゃ嫌だ
ろうしね」
「え、まぁ」
「随分、正直だね。でも当然か。じゃ、根津神社の交差点あたりで僕は
帰るから」
「サンダルいつお返ししたらいいですか?」
「そうだな。渡した名刺に携帯番号書いてあるから、いつでも都合のい
いとき、連絡くれればいいよ」
「電話ですか…」
「夜なら大抵繋がるから」
「でも、かけるタイミングが難しくって…」
「…じゃ、そうだな。次の土曜日って用事ある?」
「今は何も」
「ならさ次の土曜、根津神社の鳥居の前に午前十時っていうのはどう?

「あ、はい。じゃそれで」
二人は、それから数分間これといった会話をみつけることもできず、無
言で歩き、交差点で別れた。
 
祥子のアパートは、千駄木駅からほど近い、入り組んだ狭い路地のとこ
ろにあった。このあたりは、まだ昭和の匂いが濃く残っている。国会議
事堂や赤坂、表参道といった東京の中心から地下鉄でわずか十数分しか
離れていないのに、まるで時間が止まったかのように町並みも空気感も
そのままだ。祥子の部屋は、近所の人が飼っている猫が、時折ベランダ
越しにやって来る小さな六畳間だったが、角部屋ということもあり陽当
たりや風通しがよく、台所の窓から森のように木々が見えるところも気
に入っていた。部屋に戻ると、すぐに借りたピンクのつっかけサンダル
を入念に流し台で洗った。

何がどう作用したら、昨日まで存在すら知らなかった男性の母親のサン
ダルが、自分の家にやって来るのかわからない。自分の母親がどんなサ
ンダルを履いていたかも思い出せないというのに、木造の風呂なしのア
パートの一角で、気がついたら鼻歌交じりに、顔も知らない人のビニー
ルサンダルを洗っている自分の姿が、なんだか可笑しかった。

                         つづく…