『雨弓のとき』 (39)                天川 彩


祥子の部屋は、片付けといっても、さほどの時間のかかるような物はな
かった。洋服も靴もバッグも、必要最低限にしか買っていない。生活に
本来、必要かと思われるものも無いまま、どうにか過ごしてきた。
だから、あっという間にほとんどが片付いた。しかし、どうしても捨て
ることも、空けることもできない大きなダンボールが一箱だけあった。
封をしてから十年以上。

ー空けるなら今だー
祥子の内側から声がしたように感じた。
呼吸を整えて、ゆっくりゆっくり。完全にダンボールに染み込んでしま
っていた紙ガムテープがピリピリと音をたてて剥がれていく。

箱を空けると、ふーっと祖母の匂いがした。祖母が作ってくれたお手玉。
デパートで買ってもらった犬のぬいぐるみ。その一つ一つが、祖母と過
ごした時間が詰まっている。

古ぼけたポケットアルバム。これも、祖母との大切な思い出が残されて
いた。といっても祖母と祥子の写真が貼ってあるわけではない。中味は
祥子の小学校の修学旅行のスナップ集だ。この写真を学校でクラスメイ
トからもらって帰って来た日、祥子は写真をゴミ箱に捨てた。それを祖
母が見つけて、人の気持ちを無にするな、思い出を汚すなと、こっぴど
く叱られたのだ。その翌日、祖母はポケットアルバムに整理して、手渡
してくれたのだ。

仕事に忙しい敏子のかわりに、祖母は母親がわりとなって育ててくれた
祥子にとって、掛け替えのない人だった。

そして、祖母が一番大切にしていた物がこの箱の底から出てきた。
それは、祥子の母、敏子の花嫁姿の写真と、生まれたばかりの祥子を抱
いた、敏子の写真。そして、桐の小箱。祖母が生前、仏壇の引き出しの
奥から時折取り出しては見ていたことを祥子は知っていた。
祖母の宝物は、自分に取っても宝物のように思えて、この箱に仕舞って
いたのだ。

しかし、その桐の箱が中学生の祥子には何であるか、わかるはずもなか
った。この時、改めて箱の裏に「敏子」と薄く書かれているのを発見し
その箱の中の奇妙な物体が「臍の緒」だということに気がついた。

祖母にとっての一番の宝物は、娘である敏子だったのだ、と思うと祥子
は不思議な感情に襲われていた。


と、その時ドアを軽くノックする音が聞えてきた。

「祥子、いる?」
それは、母、敏子の声だった。

                            つづく…