『雨弓のとき』 (38) 天川 彩
祥子の父が他界して、まだ数ヶ月。結婚するのなら、喪が明けてからと
いうのが筋だということは、祥子も良一もわかっている。しかし、お腹
の子どもが生まれる前に、籍を入れたいとも思っていた。
良一の両親や祥子の母親とも電話で相談すると、口をそろえるように、
一日も早く入籍した方がいい、という答えだった。
「結婚式はさ、全てが少し落ち着いてから、改めて考えようよ。今は結
婚式より、入籍が大事だよ」
良一が、皆の前で笑顔で提案してきたので、祥子は「そうね」としか返
答することができなかったしたが、内心は穏やかではなかった。
淡い憧れでもあり、人生の大切なセレモニーであるはずの『結婚式』が
自分は出来ない。けれど、状況が許さないのだから、仕方がないのだ。
祥子は、声に出来ない気持ちを、自分の中にぐっと押し込んだ。
しかし、それが想像以上の深い悲しみの傷になっていたことなど、この
時の祥子には、知る由もなかった。
第9章
仙台から戻って来た翌週、良一と祥子は文京区役所に婚姻届を提出し、
その次の日、祥子は一人で大学に退学届けを出しに行った。
タイル張りのキャンパスに、お行儀良く飢えられた銀杏並木が、青々し
く茂っている。昨年、この銀杏の葉が、黄色く色付いていた頃、ちょう
ど良一と出会い、今年再び黄色く色付く頃には、子どもが生まれている。
祥子は、人生とは予期しないことの連続なのだ、と改めて感じていた。
明日香が、顔を歪めながらカフェにやってきたのは、午後になってから
だった。注文を取りにきたウエートレスに「コーヒー」と一言、蚊の泣
くような小さな声を発しただけで、そのまま黙り込んでいる。
「ごめん。驚かせちゃって」
「…」
「今、退学届け出してきた」
「…」
「お願い。何か喋ってよ」
「…」
「ねぇ、明日香」
明日香の目から、みるみる涙が溢れ落ちていたので、祥子は慌ててカバ
ンの中からハンカチを取り出し手渡した。明日香は相変わらず何も喋ろ
うとはしない。
「約束、守れなくなって…ごめんね」
「…」
明日香は、自分の気持ちを整えるように大きく深呼吸をして、真っ直ぐ
祥子の瞳を見つめながら、やっと口を開いた。
「後悔しないの?」
「後悔?」
「だから、こんなに急いで結婚してお母さんになって」
「だって、良一さんのこと大好きだし、子どもは産みたいもん」
「でも、本当にいいの?マスコミに就職するため頑張ってきたんじゃな
いの?」
「それはそうだけど。でも、もう決めたことだし」
明日香は、祥子に聞えるように、大きなため息をついた。
「去年…」
「去年?」
「そう。去年、私が祥子と一緒にアパレル展示会のバイトに行っていた
ら、こんな流れにはならなかったよね」
「それは、確かにそうかもしれないけれど」
「ごめんね。おめでとうって素直に言えなくって」
「ううん。だって勝手に学校辞めてしまうわけだし」
「私ね、祥子ほど気が合うというか、心許せる友達、今までいなかった
んだよね」
「そんなことないでしょ。明日香なんか私と違って社交的だし、いっぱ
い大学の中にだって友達もいるしさ」
「でも、本気で心許せる友達に初めて出会ったんだ。だから、祥子が大
学から途中でいなくなってしまうと思ったら。あーダメだ。また涙出て
きちゃった」
「明日香。私もやっと親友と呼べる友達に、ここで出会えたのにさ」
祥子も、我慢していた涙が堰を切ったように溢れ出てきた。しばらくし
て明日香の前にコーヒーが運ばれてきた時も、二人は涙を拭うでもなく
そのまま子どものように泣きじゃくっていた。
カフェを出ると、すっかり日が暮れていた。思い切り泣いてスッキリし
たのか、祥子も明日香も晴れ晴れとした顔になっていた。
「祥子、幸せになんなよ。」
「ありがとう。明日香も私の分まで頑張って、第一志望の広告代理店に
就職して、バリバリのキャリアウーマンになってね」
「引越しの日は、手伝いに行くから」
祥子は、その日の夜から本格的に、ダンボールに荷物を詰め込み始めて
いた。
つづく…