『雨弓のとき』 (36)                天川 彩


「緊張する。どうしよう…」
新幹線を降りて、タクシーに乗った途端、祥子の両手がジットリと汗ば
んできた。良一から家族の話は以前、聞いてはいたが、まさか自分がそ
の親族の一員になろうとは、夢にも思っていなかった。
祥子は、その汗ばんだ手を良一の手の甲に乗せた。
良一は、その手の上に更に自分のもう片方の手を重ねて言った。
「大丈夫だって。電話でだいたいのこと、伝えてあるし。みんな、祥子
ちゃんが来るの楽しみにしているみたいだから」
「だから緊張するんじゃない。ねぇお化粧濃くない?おかしくない?」
「だから、大丈夫だって。バッチリ可愛いよ。きっと親父ビックリする
よ。祥子ちゃんがあまりにも可愛いから」
「冗談いわないでよ。本当に極度の緊張状態なんだから」
「いや、冗談じゃないよ。本当だって」

タクシーが止まった時、祥子は緊張のピークに達していた。しかし、降
りない訳にもいかない。祥子は、ソロソロと車から降りると、まずは大
きく鼻から空気を吸い込んだ。東京の空気よりも、なぜか少しだけ空気
が甘く感じる。祥子は、ガチガチの緊張がほんの少し解けたように思え
た。良一は、二人分の荷物を持って既に玄関の前に立っていたので、祥
子は慌てて、その真後ろに隠れるようにして立った。

「よく来たわね。まず、あがって」
玄関の扉が開き、小柄なふっくらとした良一の母が満面の笑顔で出てき
た。良一の母とは、勿論初対面だったのだが、瞬間的に祥子は親しみを
覚えた。

あれは、半年前。良一と初めて知り合った日に、慣れない靴で歩きすぎ
靴擦れになってしまった祥子は、良一の母が上京時に置いていった、ピ
ンクの突っかけサンダルを借りたことがあるのだ。
良一とは、そのサンダルが縁で付き合い始めるようになった、といって
も過言ではない。そのピンクのサンダルの主が、今目の前にいる。
サンダルを借りた時に、漠然と想像していた良一の母の姿。まさに、目
の前で笑っているその人は、祥子が想像した通りの人だったのだ。

母親は、居間に二人を案内すると、さっさと台所に入ってしまった。
居間のソファーには、良一の父と妹とおぼしき人物が、これまた緊張し
た面持ちで座っていた。祥子は、このような時に、どのように挨拶をし
たらいいのか、全くわからなかったので、とりあえず昔、祖母がいつも
訪問時にしていたように、正座をして両手をついて深々と頭を下げた。
すると、その姿を見た良一の父と妹とおぼしき人物も、慌ててソファー
から飛び降りて、正座で手をついて深々と頭をさげた。

「ちょ、ちょっと。何でそんな堅苦しい挨拶しているの?もう、いいか
ら頭をあげてよ。ちゃんと僕から紹介するから」
良一は、祥子の姿も父親や妹の姿も可笑しかった。そこに、お盆の上に
お茶とお菓子を乗せた母親が戻ってきた。

「なーにしているの。ねぇねぇ、みんなそんなに緊張しないで」

祥子は、この良一の家族が一瞬にして大好きになった。

                          つづく…