『雨弓のとき』 (35) 天川 彩
「そうなの」
母の敏子は、妊娠の告白をまるで他人事のようにあっさりと受け取った
ので、祥子は拍子抜けした。
「そうなのって、お母さん驚かないの?」
「あ、あの…」
良一が途中で口を挟んだ。
「あの…。順番が逆で申し訳ないんですが、祥子さんと結婚させてくだ
さい。本当は、彼女が大学を卒業して、何年か社会人経験もさせてあげ
た後の方がよかったとは思うんですが…」
「け、結婚?!」
敏子が突然大きな声を出したので、前のテーブルで食事をしていたカッ
プルが驚いた顔をして振り向いた。
敏子の反応はあきらかに矛盾していた。しかし、敏子にしてみると、祥
子の突然の妊娠の話は、あまりに現実離れした話に聞こえて、事態その
ものをよく把握できていなかったのだ。
敏子は声のボリュームを極端に下げながらも、強い口調で続けた。
「結婚?えっ、妊娠って、まさか祥子…。ちょっと何よ?それどういう
ことなの?」
祥子も、敏子の声のボリュームに合わせて、ヒソヒソ声で返答した。
「だから、さっきも話したけれど、私、妊娠しているの。それで、大学
は辞めて、良一さんと結婚することにしたの」
「ちょ、ちょっと待ってよ。結婚することにしたって、そんな一方的な
突然の話…。あなた、高梨君って言ったわよね」
「はい」
敏子は改めて、良一の方を向き睨みつけながら、マジマジと顔を見てい
たのだが、その視線がふと少し和らいだ。
「あれ?あなた。もしかして、お父さんの告別式の日に来てくれていた
人?」
「そうよ!彼、お通夜にも来てくれていたのよ」
良一が返事する前に、祥子が横から口を挟んだ。
「なんか、最初から見たことあると思ったわ」
「でしょ」
「それはどうも、その節は、ありがとうございます。でも…それとこれ
とは、話が違うもの…。そんな突然、妊娠だの結婚だのって…」
「申し訳ありません」
良一は深々と頭を下げた。
「だって、祥子はまだ二十歳ですよ。もうすぐ二十一になるけれど、つ
いこの前まで高校生で…。大学だって、奨学金で通っているんだし」
「それは、僕が責任を持って」
「責任…ねぇ」
「お願いします!祥子さんと結婚させてください」
良一が敏子に頭を下げるのを見て、祥子もあわてて頭を下げた。
それからしばらくの間、無言の空気が流れていたが、祥子は大きなため
息を一つついてから口を開いた。
「そりゃそうよね。結婚するしかないものね。わかったわ」
その翌週の週末、二人は良一の実家である仙台に向った。
つづく…