『雨弓のとき』 (34) 天川 彩
「すみません、高原敏子の娘ですが、母をお願いできますか?」
母の職場に電話をかけたのは、何年ぶりだろう。受話器の奥から漏れ聞
えてくる、祥子の知らない母の世界の音。
妊娠の事実を母にどう伝えるべきか、しばらく思い悩んだが、産むと決
めた以上は、早く母に伝えなければ、と思った。
勿論、職場に電話をする前に、幾度か敏子の携帯に電話をかけてみたの
だが、ずっと留守電中。それは、この日に始まったはなしではなく、い
つもそうなのだ。どうも、母の敏子は携帯電話が嫌いらしい。いつも電
源をオフにして鞄の中に入れているようだが、緊急用といいながら、何
の緊急の役にもたたない。
ややしばらくしてから、母のよそゆきの声が流れてきた。
「はい、高原でございます」
「あ、お母さん…。私、だけど」
祥子の声を聞いた途端、その声は急に1オクターブも下がった。
「何?どうしたのよ?職場にまで電話かけてきて」
「あのさ、今晩あいてる?」
「え?突然どうしたの?」
「ちょっと、話があって…」
「だからどうしたの?」
「いや…もし会えるんなら、今晩会って話したいことがあるの」
「今夜は用事ないから構わないけれど…。でも、話って何よ。恐いわね」
「とにかく、今夜話すから。場所は北千住の駅ビル改札口でいい?」
「仕事終えてからだから七時になるわよ。それじゃ、今、急ぎの仕事し
ている最中だから、電話切るね」
祥子が、後ろを振り向くと、良一は、大きく深呼吸をしていた。
「今夜、七時に会うことになったよ」
「…うん」
「緊張してる?」
「そりゃ、当り前だよ」
母の敏子と待ち合わせをした改札口は、駅ビルに入っているデパートの
食品売り場、通称デパ地下と直結している。電車が着くたびに、仕事を
終えたOLや働く主婦たちの人波が惣菜売り場に吸い込まれていく。
これから家路に急ぐのであろう、その女性達の顔は、仕事仕様から家庭
仕様に、どんどん変わっていくかのように、祥子には見えた。女性達の
バイタリティ。この溢れる力に、この日の祥子は圧倒されていた。
また、地下鉄が止まり、女性達が大きな波となって改札をくぐりぬけて
きた。母、敏子の姿をその中に瞬時に探し出した祥子だったが、そこに
は滅多に見かけない仕事仕様の母の顔があった。
「あ、祥子ちゃん。ごめん、待った?」
母は祥子を見つけた途端、みるみる家庭仕様の顔に戻った。
「ううん。今来たところだから。えっと…そうだ…」
祥子は、少し離れて横に立っていた良一の腕を引っ張った。
「えっと、高梨良一さん」
「あっ…あの、高梨です」
良一は、あまりの突然の紹介に度惑いながらも、頭を下げて挨拶を交わ
したのだが、良一以上に戸惑っていたのは、母の敏子だった。敏子は祥
子が一人で改札口に立っているものとばかり思い込んでいた。
隣に立っている見知らぬの青年を、突然娘に紹介されることになるとは、
夢にも思っていなかった。
「えっ?祥子一人じゃないの?」
「…」
「何?どういうこと?」
「…」
「あの〜。ここでは何ですから、上のレストラン街に行きませんか?」
険悪なムードの中で、口火を切ったのは良一だった。
人気のイタリアレストランは、この日、予想外に人が少なかった。祥子
はややほっとしたのだが、これから始まるであろう時間を想像すると、
目の前に出された水も飲むことができなかった。
つづく…