『雨弓のとき』 (33)                天川 彩

 

「お土産買ってきたし、今度は絶対一緒に連れて行くから、そう怒らな
いで機嫌直してよ」

スーツケースの中をゴソゴソと探っていた良一の背中越しに、祥子は恐
る恐る話しかけた。
「怒っていないよ。だけど、どうやら出来ちゃったみたい」

良一は、祥子の言葉が理解できず振り向いた。
「えっ?何?」
「だから、赤ちゃん…」

成田空港で出迎えてくれた時から、祥子の態度がおかしいことには気付
いていた。空港で泣いたかと思えば、モノレールの中でも、電車の中で
も、全く口を開かない祥子。良一は、てっきり自分だけアイルランドへ
行ってしまったことを祥子がまだ怒っているのだと、勝手に思い込んで
いた。

「ホント?」
「多分、間違いない…と思う。妊娠検査薬で確かめたから」
「だめだよ。そういうことは、ちゃんとしないと。そうだ、明日一緒に
病院へ行こう」
「…病院?」
「嫌だ、怖い」
「そんなこと、言っている場合じゃないよ。とにかく、明日一緒に病院
へ行こう」



第8章

産婦人科の待合室は、予想外に今風の洒落た空間だった。中央に置いて
あるピンクの巨大なソファーには、大きなお腹をした妊婦さんたちが幸
福に満ちた顔で座っている。祥子と良一は、そのソファーを避けるよう
に、廊下の一番端に置いてあった、ベージュの硬いベンチの隅に並んで
腰掛けた。祥子は永遠に診察の順番が巡ってこないことを祈った。が、
そんな薄っぺらな祈りは通じるはずもなく…。
「高原さん。高原祥子さ〜ん」
背の高い看護婦さんが、ピンクのソファーに向って声をかけていたので、
祥子は仕方なく、のそのそと立ち上がった。

「おめでとうございます。十週目に入っています。元気ですよ。ほら」
初老の医師が、指差したモニターの先に、ミジンコのような影がチカチ
カと動いている。それは、祥子が初めて見た命の鼓動だった。


「そうか!10月には生まれるんだね」
待合室で良一が、嬉しそうに大声で叫んだので、ピンクのソファーに腰
掛けていた妊婦さんたちは一斉に振り向き、そして笑った。

マンションに戻って来てからも、良一は興奮していた。
「なるべく早く、君のお母さんにご挨拶に行かなきゃね。それから、仙
台にも、今夜電話で知らせた方がいいかな。それとも…来週にでも一緒
に行く?」
「…」
「とにかく、早いほうがいいよね」
「…」
「どうしたの?大学のこと?」
「うん」
「気持ちはわかるよ。でもさ、命だよ。新しい命だよ。懸命に生まれて
こようとしているんだよ」
「わかっている。今日、自分の目で見たし…。でもね…」
「でも?」
「うまく言えない。急すぎて受け止められない」
「そうだよね。でもさ、確実に僕達の子どもが君の中で生きていること
は間違いないんだよ」
「だから、わかっているって。でも」
「僕が…。僕が君も子どもも守っていくから」
「…」
「頼りないかもしれないけれど、幸せにするから。だから、結婚しよう
よ。大学は休学して、また子育てが少し落ち着いたら行けばいいよ」
「でも…」
「そうしなよ。勉強、続けたいんだよね」
「私、勉強をしたくて大学に入ったんじゃなくて、マスコミで働きたい
から勉強頑張っていたの」
「そうか。でも、その夢だっていつか叶うよ」
「簡単にそんなこと言わないで!」

祥子の心は揺れていた。今日エコーのモニターで見た、小さな命。その
命が自分の中で今も生きている。でも、その命を選んだならば、自分の
夢みていた道が閉ざされるようで、祥子は苦しかった。
「産んだ方がいいことはわかっている。でも、今はまだいらない!」
そう口走った途端、祥子の頬に熱い痛みが走った。

「あのさ。人生って、時には思い通りにならないこともあるよ。でも、
一生懸命頑張っていたなら、誰だって新たな道が必ず開けると思うんだ。
でもさ、命の選択だけは、神様以外できないことなんだと僕は思ってい
る。授かった命は、君のものでも僕のものでもなく、その子の命なんだ
よ。祥子ちゃんのご両親だって、君という存在を大切に思ったから、君
の命をこの世に産んでくれたんじゃないか」

祥子は、一度もそんな考えをしたことがなかった。
子どもは授かりもの、という言葉は知っていた。が、授かりものという
意味は少しもわかっていなかった。

「命…授かっているんだ。私、もうお母さんか」
祥子はそう呟くと、まだペタンコのお腹を静かにさすった。

                                
                                                 つづく…