『雨弓のとき』 (30)
                     天川 彩


「大変だったね」
「ううん、本当にありがとう。良一さんにお通夜から葬儀まで、色々手
伝ってもらって、どれほど母も私も助かったことか」
「そんなことないよ。はい、ココアここに置くね」
「ありがとう」

祥子は良一が入れてくれたココアを一口飲むと、大きくため息をついた。
父が亡くなった後、悲しみに暮れる間もなく、様々な手続きがあり目が
回るほど忙しかった。こうやって良一の部屋に来たのは、本当に久しぶ
りで、一気に体の力が抜けていくように感じた。

「なんだかさ…」
「ん?」
「なんだか、人の命って儚いなって思った。だって、かなり長い間父親
として認められない人だ、とは思っていたけれど、やっぱり自分の親だ
し。まさか死ぬなんて…想像もできなかったから」
「本当にそうだよね。でも祥子ちゃんとお父さんが、最後に少しでも親
子として触れ合える時間が持てたことは、本当に良かったよ」
「…。まぁ、そうかな。お母さんも変わったし」
「変わった?」
「お父さんが最後にお母さんのもとに来たでしょ。それでお母さんの人
生も何処かで救われたような、そんな気がするんだ」
「お母さん、綺麗な人だね」

祥子は、葬儀の日の母の姿を決して忘れることはないだろう。
葬儀の日、喪服を着て父の棺のそばにいた母はドキンとするほど美しか
った。位牌を抱きしめながら歩く姿は、愛する人を永遠に取り戻したか
のような安堵の表情すら浮かんでいた。

「そう?普通だと思うけど。うちのお母さんも、良一さんのこと、よさ
そうな人ね、って言っていたよ」
「こんなかたちで祥子ちゃんのお母さんと会うとは思わなかったから、
今度ちゃんとお食事ぐらい誘わなきゃね」
「いいって」
「だけど、お父さん亡くなって寂しいだろうしさ」
「ありがとう」
「それより、アイルランド旅行なんだけど」
「あっ、そうだよね。来月だもんね」
「あのさ、言い難いけれど、祥子ちゃんは今回やめた方がいいよ」
「でも…私も楽しみにしていたし」
「四十九日前に旅行に行くのは、やっぱりダメだよ」
「それじゃ、その後」
「ごめん。四月に入ると仕事が忙しくなって、なかなか休暇が取れない
んだ。だから、夏休みとかまた別の機会に一緒に行こうよ」
「良一さんは、来月予定通り行くの?」
「ごめん。ちょっと勉強したいこともあるし、今回は一人で行くよ。
でも、次は絶対に連れて行ってあげるからさ」
「…」
「アイルランドは逃げないから」
「ま、しょうがないか。子どもじゃないんだし、我慢も必要か」
「えらいね。ご褒美に…」
そういうと、良一は祥子の柔らかな唇に口元を重ねてきた。



祥子が自分の体の異変に気が付いたのは、良一がアイルランド旅行に行
っている時だった。

                           つづく…