『雨弓のとき』 (3)                天川 彩


祥子の両親は、物心ついた時から不仲だった。
不倫をしていた父親は留守がちで、たまに帰って来ても母の敏子といつ
もいがみ合っていた。

高校二年の夏休み。夕方部活を終えて家に帰ると、敏子が洋服箪笥の中
から、父親の古いスーツやネクタイを引っ張り出し、ハサミで切り刻み
ながら泣いていた。いつも優しい母が、その時には夜叉のようで恐ろし
く、祥子は声をかけることも出来ずに家を飛び出した。

その日、どこをどう彷徨っていたのか思い出せない。
夜遅く家に帰ってくると、家明かりが消えていた。祥子は母が自殺をし
たか、父を殺してしまったのではないかと怖くなったのだが、恐る恐る
中に入り電気をつけると、昼間散乱していた部屋はきちんと片付き、敏
子がぼんやりと食卓テーブルの前に座っていた。まるで魂を抜かれた人
形のように、祥子の目も見ずに離婚したことを淡々と語る母。祥子はそ
の姿を冷ややかな目で見ながら正直なところ、どこかでほっとしていた。

しかし同時に両親とも許せないと思った。
不倫に走った父親、それを容認していた母親。首の皮一枚であっても家
庭というかたちを保ってくれていただけでよかった。しかし、両親はそ
れを崩壊させたのだ。この日、初めて親を憎いと思った。学校の友人た
ちのように、幸せな家庭の子どもにしてくれなかった両親を許せないと
思った。離婚以後、父親は祥子たちの前に現れることはなく、取り残さ
れた母親が必死で生活を支えてきたことはわかっている。しかし、あの
日からずっと処理しきれない理不尽な思いが祥子につきまとっていた。

「私は今、都内で一人暮らしをしながら大学に通っています」
「そうなんだ。出身はどこ?」
「出身というか…母は、埼玉の越谷ですけれど」
「お父さんとか兄弟とかは?」

良一は、何の悪気もなかった。人には様々な事情がある、ということを
察するまで人生経験を積み重ねていなかっただけだ。だから、良一にと
っては一般的な質問をしたつもりだったのだが、祥子にとっては最も触
れられたくない質問だった。父親が不倫の末、再婚した女性との間に、
既にかなり大きくなっている子どもが二人もいるという話は、何年か前
に敏子から聞いている。しかし、絶対異母兄弟など認めたくなかったし、
そういう存在がこの世にいることすら認めたくなかった。

「父親は私が生まれた直後に、死んだらしいので…」
「そ、そうだったの。ごめんね。じゃ、お母さんと二人なんだ」
「ま、そんなところです」
「でも、どうして母さんと一緒に暮らさないの?越谷なら東京と変らな
いでしょ」
良一の更なる、一般的な質問は祥子の心の地雷を踏んでしまった。祥子
はそれまで持っていたフォークとナイフを皿の上に置くと、思わず大声
で怒鳴った。
「なぜ、そう根堀り葉堀り聞くんですか?失礼じゃないですか。初めて
あったばかりなのに」
隣のテーブルの家族連れが、驚いたように祥子を一斉に見た。良一は、
慌てて目の前にあるコップの水を飲み干して、少し気持ちを整えるよう
にして言葉を続けた。
「悪かったね。だよね。今日出会ったばかりの人に…確かにそうだ。ご
めんなさい」
「あ、いえ…。ついカッとしてすみません。私、自分のこと話すの得意
じゃないんです」
「いや、僕が悪かったよ。他人には言いたくないこともあるしね」
「ごめんなさい」
「話題を変えよう。そうそう。君はアパレルに興味あるの?」
「いえ…正直なところ、あんまり。たまたま、時給のいいバイトが情報
誌に出ていただけで。でも失敗しました。展示会のコンパニオンってあ
んな凄いんだって知らなくて」
「どう凄いの?」
「女の人達が綺麗過ぎて、それをみんな競っていて、なんだか疲れてし
まいました」
「君も十分、可愛いし綺麗だと思うけれど」
「冗談はやめてください。私、自分のことわかっていますから」
「そうかな。あれ…思い出した!今日、君さ僕にトイレの場所教えてく
れた女の子だ。そうだよ、君だよ」
「え…はい」
「あれ?君も僕のこと覚えてくれていたの?」
「なぜか…なんとなくですけれど」
「だよね。一瞬だったしね。焦っていたんだよなぁ、あの時」
「そうだったんですか?」
「急に腹が痛くなって…。あ、ヤバイね。今食事中だったね」
「ええ」
「だけど、そんな状態なのにさ、あれ〜可愛い子だなって思ったんだよ。
あの時は制服着ていたから、今とはちょっと感じ違うけれどさ。確かに、
君可愛いよ」
「嘘です」
「いや、嘘なんて今言う必要ないじゃない」

祥子は、両親の離婚後、何処か本音で人との関わりを持つことが怖くて、
今まで誰とも付き合ったことがなかった。それなりに女友達はいたが、
自分の本音を他人にさらけ出すことは恐ろしくて、なるべく人との接点
を避けて生きてきたので、男性から可愛い、とか綺麗などと面と向かっ
て言われたことがなかった。祥子は急に恥ずかしくなって、うつむいた。

「今日はさ、とんだハプニングだったけれど、そのお陰でこんな時間が
持てて、なんだかラッキーだな。本当はもっといろいろ聞きたいんだけ
ど、質問されるの嫌そうだし…そうだなぁ」
「あ、ごめんなさい。ちょっと家族のことは。それ以外だったら大丈夫
です」
「そう?」
「はい。でも…」
「でも、何?」
「今日はちょっと疲れちゃいました」
「そうか。そうだよね。早く食べ終えて帰った方がいいね。ごめんね」
「いえ…そうじゃなくって」
「え?」
「早く帰りたいということじゃなくって、ただ、疲れた一日だったなっ
て。素直な今日の感想です」
「確かに、僕もなんだかちょっと疲れたよ。だけど、どうなったかな」
「何がですか?」
「いや、吉田部長とさっきの女の子」
「さぁ、どうでしょう。私にはよくわかりません。だけど二人とも不純
です」
「不純か。なんだか懐かしい響きだね。だけど、男と女って純粋だけじ
ゃ成り立たないようなものがあるような気がするよ」
「だから、大人の世界って好きになれないんです。二十歳を過ぎて、自
分も大人の世代なんでしょうけれど、何だか汚い気がするんです」
「汚い?そんなことはないと思うけれど」
「私、浮気をする男の人も、好きでもないのにそんな素振りをしたりす
る女の人も嫌なんです。要は騙しあっているだけだから。私はもっと純
粋な恋がしたい」
「うん…。でもさ、何事も単純には割り切れないことってあるからさ」
「高梨さんも、浮気するタイプなんですか?」
「いや、僕は…。でもどうかな。絶対にしないとも言い切れないし、す
るとも言えない」
「え、それじゃ信用できないですね」
「本当に信用できないのは、絶対しないって宣言しながら、簡単に宣言
を破る奴だろ」

「なんだか、よくわからなくなってきました」
「僕は、きっと生涯大切に思える人と出会えたならば、浮気はしないと
思う。いや、する必要もないと思うんだ。だけど、そんな人に本当に巡
り逢えるかわからないよ。今までも何人か付き合ってきたし、結婚を考
えた人もいたけれど、結局うまくいかなかった。僕は生涯独身の方が向
くタイプなのかもしれない。独身は気楽でいいしさ」

「そんなのもアリだって、私も思います」
「え?」
「独身なら、家族を不幸にしない」
「どういう意味?」
「だって、子どもとかいないわけだし、恋人だったら浮気していたら別
れれば済む問題だし。でも結婚していたら、浮気は不倫になって、結局
ゴタゴタして家族が崩壊して…」
「崩壊…」
「さっき私、父親は死んだって言いましたけれど…父の不倫で家族が崩
壊したんです。だから、私の中では死んだんです。さっきのおじさん、
どんなに偉い人なのか知らないですけれど、あんなに鼻の下伸ばして最
低だと思います。奥さんが知ったら、どうするつもりなんでしょうね」
「あ…。吉田部長。奥さんいないんだよ」
「え?」
「もう、随分前に、癌でなくされているって聞いたことがあるから」
「そ、そうなんですか?」
「だからさ、見た目とか、なんだとかで人は判断できないんだよ」
「いやだ…私。勝手に最低な浮気オヤジだと思っていた」
「でも、どうやら君の友達…じゃなかった、あの派手な女の子は、吉田
部長の社会的な肩書きしか興味ないようだから、吉田部長、あの子に
食事をご馳走して、ついでに僕らにもご馳走する羽目になって、それで
今回は終わりだろうな」
「なんだか、ちょっと気の毒ですね」
「ま、今日はありがたく、ご馳走になっておこうよ」
「ですね」

二人は、とっくに冷めてしまったサイコロステーキを再び頬張りはじめ
た。

  
                          つづく…