『雨弓のとき』 (29)
天川 彩
祥子は、祈るような思いで電車に飛び乗った。
車内はガラガラだったが、真冬の車内の座席は不必要に暖房がかかり、
祥子は、息苦しさからドアの前に立った。
真っ暗な地下鉄の壁が、ただ横滑りに流れていく。
祥子は窓ガラスに映る自分の顔を見ながら、父親に似ている部分を必死
で探してみた。あんなに嫌っていた父でも、自分の半分はその父親の血
が流れているのだ。その父が死ぬかもしれない。悲しみとも違う、戸惑
いのような感情が押し寄せていた。
北千住で電車を乗り換えて、越谷の病院に着いた頃には、あたりはすっ
かり暗くなっていた。
病室に行くと、父親は沢山のチューブに繋がれ眠っていた。
「あ、祥子ちゃん。間に合ってよかった。今夜が山なんだって」
母親の敏子は、やつれた顔を向けて、動揺した風でもなく、淡々として
いた。
「そう…なの?」
「あのさ、あっちの奥さんや子どもさんにも、一応知らせた方がいいと
思っているんだけど、祥子ちゃんはどう思う?」
「えっ?どうして!」
「だって、離婚したといっても、去年までは夫婦だったんだし、子ども
さんにしたら父親だし」
「そんな必要ないよ。お母さん、どうしてそんなこと思えるの?おかし
いよ。変だよ。嫌じゃないの?」
「嫌とかどうとかの問題じゃなくて、連絡するのが筋かな…とも」
「どうしちゃったのよ!お母さん!!」
「お父さんが、一番幸せな方法で見送ってあげたいと思って…」
敏子は、そういうとベッドの脇にある椅子にしゃがみ込み、痩せ細った
元夫の手を取ると、自分の頬にあてた。
「祥子ちゃん。お母さん、やっぱりお父さんのこと一番好きだったの」
「知っているよ」
「その一番好きな人が、もうすぐ死んじゃうのよ」
敏子の目から伝った涙が、その青白い手を濡らしていた。
「お母さん。お父さんも、やっぱりお母さんのことが一番好きだから、
お母さんの元に帰って来たんだよ。今、お母さんがこうして手を握って
あげていることだって、きっとお父さんにはわかっている。そして、幸
せなんだと思う。私にはわかるよ。だって、私はお父さんとお母さんの
たった一人の子どもだから」
「祥子ちゃん…」
それから二時間後、父親は静かに息を引き取った。
葬儀の日、やはり母の敏子は、父親と不倫の末に再婚した元妻と子ども
にも連絡していたらしい。焼香に来ている姿はみかけたが、何一つ言葉
を交わすこともなく、そそくさと帰って行った。参列者が極端に少ない
葬式ではあったが、喪主となった母の姿は、娘から見ても凛として美し
いと祥子は思った。
つづく…