『雨弓のとき』 (28)                天川 彩

「ほんと、マジ羨ましいんだけど。彼が海外に連れて行ってくれるな
んて、あり得ないよ」

その日は、久しぶりに明日香が祥子のアパートに泊まりにきていた。
「パスポートできたんだ」祥子が真新しいパスポートをカバンから出
すと、明日香は夕食のピザを片手で頬張りながら、もう片方の手でパ
スポートを取り開いた。
「あ、明日香。油付けないでよね。十年はこのままなんだから」
「そうか…ごめん。私海外はまだ行ったことないからさ。パスポート
の中ってこうなっているんだ。写真も、なかなかよく写っているじゃ
ない」
「明日香は、もう何度も行っているのかと思った」
「そんな余裕ないから。実家も金持ちじゃないしさ。でも社会人にな
ったら、ガンガンお金貯めて、いろんな所に行きたいと思っているん
だ。できれば、仕事でも海外出張なんか出来たらいいな、と思ってい
るんだよね。実はさ、サークルの先輩に紹介してもらって、来月から
広告代理店でのアルバイト決まったんだ」
「凄いじゃない!」

親友の明日香と一緒にいると、いつも祥子は未来の夢が広がるような
気がしていた。祥子は、いつもキラキラしている明日香の姿を見るの
が好きだった。

「そうか。仕事で海外出張か。なんか格好いいね」
「何言っているの。祥子だって編集者希望なんでしょ。雑誌で海外取
材なんかあるんじゃない?」
「え〜。あるかなぁ」
「きっと、あるよ」
「じゃ、頑張って益々頑張らなきゃ」
「そうだよ。恋も仕事もこれからだもんね。でも、それにしても羨ま
しいよ。彼に海外旅行連れて行ってもらうなんて。やっぱり大人と付
き合うといいね。で、いつから行くの?」
「3月に入ったらすぐかな。彼、4月になったら、忙しくなるらしい
から。新人も入ってくるらしいし」


第7章

母の敏子から電話があったのは、2月の終わりの週だった。
「祥子ちゃん、すぐ病院に来て!」

正月休みが終わった数日後、父親は数年ぶりに、敏子が待つ家に戻って
来ていた。敏子は仕事を休業し、しばらく新婚時代のやり直しのような
時間を二人で過ごしていた。しかし、蜜のような時間は、そう長くは残
されていなかった。2月に入った途端、父親の様態が悪くなり、近くの
大学病院に入院することになった。祥子が父親と久しぶりに会ったのは
この病室でのことだった。久しぶりに会った父親は、以前とはまるで別
人のように、静かで穏やかな表情だった。あんなに頑固で自分勝手で、
自分たちを裏切ってきた世界一嫌いな人物が、弱って目の前にいる。
確かにこの人の存在がなかったら、今、自分はこの世にはいないのだ、
と思うと、言葉に出来ない感情が込上げてきた。
「すまんかったね」と小さな声で言った父親の一言で、祥子はこれまで
ずっと詰まっていた気持ちが、スーッと溶けていくような気持ちだった。

それから折をみて、祥子は病院に顔を出すようになっていた。敏子から
は、末期癌だと知らされていたが、祥子の前ではいつも元気に振舞って
いたので、そんなに様態が急変するとは思ってもみなかった。

                       つづく…