『雨弓のとき』 (25)                天川 彩



母の敏子は熱いお茶をテーブルに置くと、カーディガンを羽織り直して
椅子に腰掛けた。
「お母さんね、あなたを産んで本当に良かったと思っているのよ。…う
うん。あなたの存在があったから頑張れたのよね」
平常心に戻った祥子は、感情にまかせてあんなことを言わなければ良か
ったと薄っすら思ったが、母のこの言葉は素直に嬉しかった。

敏子はお茶をひとすすりすると、ポツポツと過去の話をし始めた。
祥子の記憶には、ほとんど残っていないことなのだが、三歳になる頃ま
で一家は平凡な家庭生活を送っていたという。しかし父親が会社を辞め、
友人と事業を興したとこから少しずつ家庭内の歯車がずれ始め、母が気
がついたときには、既に父は他の女性との二重生活をしていたらしい。

「知ったときには、どうやって生きていったらいいかわからなくって、
本気で死んでしまおうかとも思ったの。でもあなたの寝顔を見たら、そ
んなこと考えたらダメだってね。それからかな。お母さん頑張って働こ
うと決めたのは」

母の言葉に祥子はただ頷くしかなかった。

「だけどお父さんに離婚しようといくら言っても、しばらくしたら帰っ
てくるから…って言うの。人を馬鹿にした話でしょ。浮気しておいて、
待っていてなんて。結局むこうに子供が出来たこともあって、いい加減
はっきりさせなきゃって離婚することにしたんだけど…。それでも、お
父さんのこと嫌いになれなかったのよね」

母の、この夜の言葉は衝撃的だった。しかし心の内側に溜まっていたヘ
ドロを全て吐き出した後の祥子は、冷静に受け止めることが出来た。
そして、高校生の時に見た夜叉のような形相で父親のネクタイを切り刻
んでいたときの母の心境が、ほんの少しわかったような気がした。

「だからお母さん、お父さんの看病したいんだ。」
「やっと…やっと帰ってきてくれたからね」
「そうだね」

恋人の良一が東京に戻ってきたのは、三が日を終えた翌日四日を過ぎた
夕方頃だった。二人はしばらく離れていた時間を埋めるかのように求め
合った。

「そうか。お父さんの病気のことは心配だけど、すごくいい正月を過ご
せたようで良かったよ。」
ベットの中でひとしきり話し終えた祥子の髪を優しく撫でながら良一が
言った。祥子は自分の事も、母の敏子のことも、そして情けない父親の
存在も、全てを肯定してくれているようで嬉しかった。
「良一さん、好き…」
祥子は良一の腕枕をはずして、ふたたびその整った唇の上に自分の唇を
重ね合わせた。


第六章


それから十日後。冬休みが終わり、祥子の学生生活が再び始まった。
親友の黒沢明日香と、学校帰りのカフェでのお喋りも、思えば久しぶり
だった。

「で?どうなった?」
「で?って何よ。いきなり」
「クリスマス過ごしたんでしょ。彼と」
「あ、うん。まぁ」
「で?」
「だから、で?って何よ」
「もう…。彼と少しは関係、進展した?」
「…」
「ん?」
明日香に、顔を覗きこまれ、祥子は見透かされているようで、みるみる
顔が赤らんでいった。

「わかりやすいなぁ。そうか。でもよかった、よかった」
「うん。まぁ。彼って本当に優しい人でね。私、彼と出逢えたこと、神
様に感謝しているんだ」
「ね、ね。祥子にちょっとだけ忠告しておくけれど」
「な、何よ、なんか怖いな」
「どんなに好きになっても、男にのめり込んだらダメよ」
「のめりこむ?」
「ほら。どうしても、そんな関係になったら、つい彼のところに入り浸
りになったり、勉強もおろそかになりがちだから」
「う…ん…」
「もしや、そうなの?」
「ま、まさか。違うよ」
「とにかく、忠告しておくよ。私たちには、マスコミ就職っていう目標
があるんだから。所詮、まだ結婚するわけじゃないんだし、恋は恋。
勉強や就職活動の妨げにならないように、ほどほどにしようね」
「でも、好きな人のこと、明日香は気にならないの?」
「そりゃ、気になるけれど。でも、今は恋より自分の人生の方がもっと
大事かな。祥子だって、そろそろ本気で就職のこととか考え始めた方が
いいよ」
「就職ね…」
「私、広告代理店に焦点絞ろうかと思っているんだ」
「広告代理店か」
「祥子は?」
「私はやっぱり、子どもの頃から憧れていた雑誌の編集がしたいな」
「いいね。お互い頑張ろうよ。いい仕事といい恋。両方手に入れる格好
イイ女、目指そうよ」
「格好イイ女…か」

                                
                       つづく…