『雨弓のとき』 (24) 天川 彩
祥子にとって、父親はただ憎いだけの存在だった。幼い頃から、幸せな
家庭の子どもというものに、強烈に憧れがあったが、そんな淡い希望を
いつも、見事に裏切っていた父。よそに女性をつくり、子どもまでつく
って、自分たちを捨てたズルイ父。母親が離婚した後、一切父親の話は
しなくなったので、完全に関係が断ち切れていたと信じていた。しかし
母親はそんな父親と未だに連絡を取り合っていた。父と母は、互いに愛
と憎しみを抱えながら、祥子の知らない年月を重ねていたのだ。
「ねぇ、お母さん…。どうしてお父さんのこと嫌いにならないの?離婚
した時、あんなに傷ついていたのに」
「…。確かに傷ついていたかもしれない。ただ、もしかすると離婚する
までが、一番お父さんのことを憎んでいたかもしれないって思うの。そ
れだけ、お父さんのこと好きだったということかな」
「私には、理解できない」
「今は、好きとか嫌いとか、そんな感情じゃないんだけど」
敏子はそういうと、大きくひと呼吸おいて続けた。
「お母さんね、お父さんの最期、看取ってあげたいの」
「えっ?」
「お母さん、自分の人生を肯定したいの」
「全く理解できないんだけれど」
「そうか。理解難しい…か」
祥子は、敏子と布団で横になりながら、こんな話をしていることそのも
のが息苦しくなった。おもむろに布団から這い出すと、小さなストーブ
に点火して、膝を抱えて座った。真っ暗な部屋の中で、ストーブの小窓
から見える炎の揺れは、まるで祥子の心そのもののように思える。祥子
はじっと炎を見つめながら、自分の奥底に仕舞い込んでいたものが湧き
上がり、やがて抑えきれない感情と共に口を突いた。
「私…。私、ずっと幸せじゃなかった。他の子のように、普通の家庭に
どうして生まれて来なかったんだろうって、ずっと思っていた。お父さ
んは、よそで家庭つくっちゃうし、お母さんはいつも仕事ばっかり。だ
けど、それでもどうにか他の子のように、両親が揃っているだけでよか
った。だけど勝手に離婚して。親の離婚ってどれほど子どもが傷つくか、
わからないでしょ。自分の存在が生まれた家庭が完全に消滅するって、
自分が壊れていくようなんだから!なのに、なのに…。こんなに私を傷
つけておいて、よりを戻すみたいなのって何?お母さんの人生を肯定す
るって何よ。その前に、私の存在、肯定してよ!」
気が付いた時には、祥子の心の底に、へどろのようにへばりついていた
思いが、どろどろとあふれ出していた。
しかし、祥子はすぐさま後悔した。自分の怒りを今、母親にぶつけたと
ころで仕方がないとわかっている。感情のままに言葉を発したことで、
祥子自身の心も痛くなっていた。と、その時背中に温かい感触が広がっ
た。振り向くと、敏子が戸惑った顔で祥子の肩を毛布で包み突っ立って
いた。
「そうよね。そりゃそうよね。そりゃ、そうだ…」
敏子は、自分に言い聞かせるように、ブツブツと呟き続けていた。
「お母さん、ごめん…なさい。私、こんなこと一生言うつもり無かった
のに」
「祥子ちゃんを、そんなに傷つけていたのね」
「いや、だから言い過ぎてごめんなさいって…」
「ほんと鈍感なお母さんでごめんね。でも、なんだかほっとした」
「え?」
「祥子ちゃん、中学生ぐらいの頃から、ほとんどお母さんに口をきいて
くれなかったから。思春期だから難しいのかなってずっと思っていたん
だけど。大学生になって、家から出て行った後は、益々口をきいてくれ
なくなったし、ずっと、怒っていたんだ」
祥子はコクンと頷いた。
「お母さんは、祥子ちゃん産むまで母親になった経験ないし、生活を支
えるのが精一杯だったから」
再び祥子は黙ったまま頷いた。
「ごめんね」
敏子は祥子の頭を優しく撫でた。その感触は、幼児の時以来だったかも
しれない。母親の温かな手で撫でられているうちに、祥子は涙が止め処
なくあふれ出していた。
つづく…