『雨弓のとき』 (22) 天川 彩
祥子は部屋の締め切っていたカーテンを開き、窓を開けた。冬のひんや
りとした空気が、籠もっていた空気と入れ替わりに入ってくる。
母親の敏子は、駅前のスーパーで買い込んできた食料を冷蔵庫に詰め込
んでいる。玄関にはまだ手付かずの大きな袋が二つ。シャンプーや食器
洗いの洗剤や、歯ブラシやパジャマまで…。いらない、と何度言っても
次々と買い物カゴに放り込んで、さっさとレジを済ませてしまったのだ。
祥子は、冷蔵庫の前にしゃがみ込む母の後姿を見ながら、幼い頃の記憶
を重ねていた。小さな頃は、いつも面倒をみてくれる祖母よりも、やは
り母が大好きで、母が仕事から帰ってくるとエプロンにしがみついて、
離れなかった。なのに、母がいつの頃からか好きではなくなったのは、
母は母としてだけ生きているわけではない、と知った時からかもしれな
い。しかし、やはり今のこの姿は母親そのものなのだ。母の中に女も母
もいる。この当り前のことを、この日祥子はようやく肯定することがで
きた。
祥子は、ヤカンに入っていた水を捨てて、新しい水を注ぎ込むと、コン
ロに火をつけた。そして、買ってきたばかりの真新しいコーヒーの袋を
あけ、二人分のマグカップを用意した。
「あれ?コーヒー入れてくれているの?」
敏子が冷蔵庫を閉めながら振り向いた。
「少しはサービスしなきゃね」
「まぁ調子いいんだから。でも、嬉しいな」
「実は私が飲みたかったんだ」
「それにしても、ここが祥子の部屋なのよね」
敏子はそういうと、狭い部屋の中を一周まわった。女の子らしい装飾品
などほとんど無い。それは子どもの頃から変わらないので、さほど驚き
はしなかったが、それにしてもサッパリしている部屋だと思った。
祥子が真新しいコーヒーにお湯を注ぐ。と、部屋の隅々まで芳香が広が
った。
「う〜ん、いい香り」
敏子は、小さな食卓テーブルに座ると満足そうに、マグカップに入った
コーヒーを口に含んだ。
「あのさ、ごめんね…」
湯気越しに、祥子が小さく呟いた。
「え?何?」
敏子は祥子が何を言っているのか聞き取れなかった。いや、厳密にはご
めんね、と小さく聞えたように思えたのだが…そんな謝られる心当たり
はない。だから、聞き違いだと思って問い直したのだ。
「だから、ごめんね」
敏子は自分の聞き違いではないことがわかった。しかし、やはり意味が
わからない。
「ねぇ、祥子ちゃん、何がごめんね、なの?」
「いや…なんだかいろんなこと」
「いろんなこと?」
「もう、いい加減、私も二十歳なんだから、いろんな意味でもっと大人
にならなきゃダメなんだよね。今日もくだらないことで、ムキになって
格好悪いと思うしさ、反省しているんだ」
敏子は驚いた。祥子が自分から素直に謝ったことなど、今までなかった
かもしれない。コーヒーをさっさと飲み干して、エプロンを着けて台所
に立つ祥子を、敏子は眩しい思いで見つめていた。
第五章
母と一つの布団で眠ったことなど、あっただろうか。祥子は、妙な緊張
感で、体が縮まり何度も寝返りを打った。
「どうしたの?眠れないの?」
「ごめん。起こした?」
「いや、お母さん、まだ眠っていないから」
「そうなんだ。もう、すっかり寝ているのかと思った」
「…」
「こうやって、お母さんと一緒に寝たことあった?」
「小さい頃は、こうして一緒に寝ていたのよ。でも、そうよね。覚えて
いない年齢だったものね。祥子ちゃんが眠るまで、こうして横で頭なぜ
て、子守唄だって歌ったのよ」
「いやだ。そんな母親らしいこと、本当にしていたの?」
「祥子ちゃんから見たお母さんて、どんな人に見えていたんだろう」
「う〜ん…。その質問は難しいな。小さい頃のことなんか覚えていない
し」
「そうか。そうだよね」
「あのさ、一つ聞いていい?」
「何?」
「お父さんとのこと…」
つづく…