『雨弓のとき』 (2) 天川 彩
「あー、こっちこっち」
窓際の奥のボックス席で、中年男が朋美に手招きをしたのと同時に、向
かいに座っていた若い男が立ち上がった。
「では、この書類を明日うちの木村に渡しておきます」
「悪かったね。今日、会場で渡しておけばよかったものを。わざわざ来
てもらって手間かけちゃったね」
「いいえ。では、失礼します」
若い男は、祥子や朋美にも軽く頭を下げて出口へ向かった。その後ろ姿
を目で追いながら、祥子は、どこかで会ったことがあるような気がした。
目の前に残った中年男は、スイッチが切り替わったかのように途端にだ
らしない顔つきになって、朋美を見た。
「いやよく来たね。今夜はゆっくり相談に乗るよ。で、こちらは?」
中年男の視線が朋美から自分に移った時、瞬間的に祥子は自分が招かれ
ざる客であることを悟った。しかし朋美は何も感じていないらしく「今
日まで一緒だった、祥子ちゃん。えーっと…ナニ祥子だったっけ?」と
悪びれる風もなく聞いてきた。
「高原祥子です」
祥子は、ぶっきらぼうに返答しながら、なぜ、自分がこんな場所にいな
ければならないのか意味がわからなかった。
「祥子ちゃん、こちらカミヤ商亊の吉田部長さん。ほら、展示会場の左
側のゾーンに大きく出展していた会社あったでしょ。あちらの部長さん。
展示会で部長さんと色々お話ししているうちに、今夜、就職の相談にの
ってくださるってことになって。ほら、祥子ちゃんも大学生じゃない。
だから今夜は一緒に就職の話なんか聞けたらいいなぁ、なんて思って…」
朋美は一人で止め処なく喋っていた。祥子は何も聞かされていなかった
話に驚いたのだが、それは目の前にいた吉田部長と呼ばれていた中年男
も同じだった。
「おいおい。今日は君が相談に乗って欲しいというから、夜の予定をキ
ャンセルして、ここの店も予約してだね…」
「祥子ちゃんと二人でご馳走になっちゃ、マズイですか?」
「いや、マズイというか何というか…。何しろ二人分しかオーダーして
いないしね」
「なんとかならないんですか?一人分ぐらい」
「いや、そんな問題以上にだね、今日は君が相談があるというから…」
祥子は、慌て二人の会話に割入った。
「私、帰りますから」
「そう?そうしてくれるかな。また、機会があったら、その時にでもま
た食事をしようかね。…ただ、ナンだな。このまま一人で帰すのも可哀
想だな」
「いえ、大丈夫です。帰ります」
「そうだ、ちょっとここで座って待ていなさい。あ、君」
テーブルの近くで黒子のように静観していた若いボーイを呼び、何か耳
打ちをした後、吉田は何処かに消え去った。
祥子はかなり腹が立っていたのだが、店の雰囲気から大声では怒鳴れず、
小声で目いっぱいの怒りを朋美にぶつけた。
「ちょっと、どういうことですか?!」
「ごめんね。私もこんな風になると思わなかったから…」
「どうして一人で来なかったんですか。私を巻き込む必要なかったじゃ
ないですか」
「わかってよ。就職の相談に乗てくれるってところまではよかったけれ
ど、食事をしようってことになって…。わかるでしょ。ちょっと一人で
行くの怖いじゃない」
「何言っているんですか。自分で誘っておいて」
「私が誘ったわけじゃ…」
「第一、嘘つくなんて酷いですよ」
「嘘なんてついていないわよ。ちょっと理由があるって、私最初に言っ
たじゃない。ただ、もっと気軽に二人ともおごってもらえると思ってい
たんだけどなぁ。ダメだったか」
「とにかく、私帰ります。どいてください」
奥のフロアから吉田が戻って来たのは、そんな押し問答をしている最中
だった。
「祥子さんて言ったかな。まぁ、いいから待っていなさい。さっき、こ
こに来ていた取引先の彼、今呼んだから。この店の姉妹店が近くにある
んだけれど、そこで二人で食事して帰りなさいよ」
「はっ?いえ、結構です。私、今帰りますから」
「まぁ、遠慮しないで。料理も二人分注文しておいたし」
「そんな…」
「まだ、食事前だろ」
「それは、そうですけれど」
「高梨君っていうんだけど、いい男だぞ。」
あの執事のような老紳士が、つい先ほど立ち去ったばかりの若い男性を
再び案内してきた。
「あー高梨君、何度も悪いな」
紺色のスーツを品よく着こなし、端正な顔立ちによく似合ったメガネと
短い髪。祥子は、改めてその男性の顔を見てドキンとした。よく見ると、
展示会でお手洗いの場所を聞いてきた男性だった。展示会に来ている、
何百、何千人という人の顔など、いちいち覚えていない。しかし、その
男性の顔だけは、ほんの数秒話しただけなのになぜか記憶に残っていた。
「いや実はね、さっきも君に話したように、今日まで展示会でアルバイ
トに来てくださっていたお嬢さんが、折り入って私に相談があるという
から、ここで食事を取りながらって考えているんだが、お嬢さんのお友
達がここまで送って来てくれていたようでね。そのまま帰すのも気の毒
だしね。で、君もちょうど食事前だろうからと思って」
「はぁ…」
「近くに姉妹店が近くにあるから、そこで二人で食事でもしたらいいだ
ろう」
「あ、はぁ」
「そうだ、まずは紹介しなきゃな。彼は高梨良一君。『イニシュモア』
の若き営業マンだよ」
吉田は祥子に向かって紹介したつもりだったが、隣にいた朋美が高い声
を上げた。
「え?『イニシュモア』って、あの『イニシュモア』?」
イニシュモアは、この十年で急成長し今や若者たちに絶大な人気を誇る
ブランドになっていた。そこの若きサラリーマンであり、なかなかいい
男の部類に入る高梨良一を、朋美も興味持たないはずがなかった。
「そうだよ。そこの有望株だよ」
「私、三浦朋美です」
朋美がすかさず挨拶をしたのだが、吉田はそれを無視するように、後ろ
でおとなしくしている祥子の腕を取り、「こちらは祥子さん」といって、
前に引っ張った。
「あ…高原祥子です」
祥子は、急な展開になぜか恥ずかしくて顔をさげながら挨拶した。
「高梨良一です」
良一は、まっすぐに祥子の方を向いて、挨拶をした。
「あのな、高梨君。そんな訳で、予約も入れておいたし、二人で食事に
行ってくれるかな」
「…。はぁ」
「勿論、今日は私が二人にご馳走するから」
「あの、四人で一緒にお食事っていうのも素敵じゃないですか」
吉田は、頭を振り朋美の往生際の悪い言葉を軽く却下して、またしても
黒子のように隅に立っていた若いボーイを呼んだ。
「君、彼らをあっちの店まで案内してくれるかな」
狐につままれたような顔をして立ち去ろうとする二人の背中に吉田は、
慌てて声をかけた。
「そうだ!高梨君。今日のことはプライベートなことだし、わかるよな。
そちらの木村君には余計なことは何も言わないでくれるよな。仕事上、
面倒なことになるのは君も嫌だろうし。食事が終わったら適当に帰って
くれていいから」
祥子と良一が案内された店は、先ほどの店とは全く異なるカジュアルレ
ストランだった。二人は席に腰を下ろしたまま、しばらく無言だった。
知らないもの同士が、互いに身勝手な顔見知りに呼び出されて、レスト
ランに向かい合わせで座っている。その不自然さからいえば無言でいる
ことは当然だった。長い沈黙の末、口火を切ったのは良一だった。
「あ、君…えーっとタカ、タカ…」
「高原祥子です」
「そう。同じタカがつくな、と思っていたんだ。僕は、高梨良一。何を
言えばいいのかな…難しいな…」
「そうですね」
「あの展示会のバイトに来ていたんだよね」
「はい」
「さっきの友達、就職の相談だったんだ」
「さぁ…友達ではないですし、よくわかりません」
「そうなの?なら、どうしてあの店まで彼女を送り届けに行ったの?」
「今回のバイトで一緒になった人なんですけれど、帰りに食事に付き合
って、って誘われたからで。でも行ってみたら違っていました」
「そうなんだ。じゃ、僕と同じようなものか」
「…みたいですね」
良一が笑ったので、祥子もつられて笑った。
「それにしても、吉田部長から再び呼び出されるとは思わなかったから
驚いたけど、まぁ腹減っているから、ラッキーってとこかな。あ、これ
僕の名刺」
良一は胸ポケットから名刺入れを取り出し、祥子に手渡した。
「へぇ。私、名刺をもらったの初めてです」
「そうなの」
「だって、まだ二十歳の大学生なので」
繁々と自分の名刺を見ている祥子を良一は、可愛いと純粋に思った。
「そうか、若いんだね。僕は二十八。今日、一緒にいた彼女も同じ大学
なの?」
「いえ、彼女も確か大学生ですけれど、何処の大学なんだろう…。あま
り聞いていないので、ほとんど知らないんです。私の大学にも、あんな
タイプの人たまに見かけますけれど、友達にはいないタイプだから」
「確かに、全く違う感じだったよね」
「三日間同じバイトだったので名前だけは知っているんですけれど。そ
れ以外のことは」
祥子はそう言いながら、連絡先の交換などしなくて本当に良かったと心
底思った。しかし、その朋美やあの吉田という男のお陰で、突然こんな
時間が巡ってきたことが不思議で可笑しかった。
気がつくと、テーブルの上には、サラダやスープなどと共にサイコロス
テーキが運ばれている。先ほどの店と姉妹店だと聞いていたが、随分と
様々な部分においてランクが違っていた。しかしそれが祥子を落ち着か
せていた。吉田が勝手に注文したのであろう料理を、初めて出会った男
性の向かいで食べていながらも、かなり緊張感がほぐれ、祥子から質問
をしてみた。
「高梨さんは、ずっと東京ですか?」
「出身は仙台。仙台市内で生まれ育って、大学になってから東京。仙台
の父親は公務員で母親は看護婦だったんだけど、祖母が寝たきりになっ
てからは、今は家にずっといるって感じかな。妹が母親の影響で、同じ
看護婦になったんだけど、両親と一緒に暮らしていてね。ま、これとい
って何も自慢するところもない、極一般的な普通の家ってところ。君の
家は?」
「私ですか…」
祥子は自分の家族の話はしたくなかった。相手に聞いたなら、当然に返
されるであろう質問をしてしまったことを、一瞬にして後悔した。
つづく…