『雨弓のとき』 (19)                天川 彩


祥子は目の前で、無邪気にカフェオレをすすっている母親の敏子がなぜ
か可愛らしく感じた。
「ねぇ、お母さん。お父さんの何処に惹かれて結婚したの?」
「えっ…何よ急に」
敏子は、突然の祥子の質問に驚き、カップを落としそうになった。
「ちょっと、変なこと聞かないでよ。びっくりするじゃない」
「ごめん。大丈夫?火傷しなかった?」
「もうちょっとで、ズボンにこぼすところだったわよ」
「そんなに…動揺する話なんだ」
「動揺なんかしていないわよ。だけど、どうして祥子が今頃そんなこと
聞くのかと思って」
「ただ、なんとなく」
「祥子には言ってなかったと思うけれど、お父さんとお母さん、昔同じ
職場でね。笑い話のようだけど、お父さんに何度も交際頼まれて、で、
交際するようになって」
「へぇ。お父さんがお母さんに恋していたんだ」
「恋していたかはわからないけれど、まぁ、押し切られるようにして結
婚したっていうのが、正直なところかな」
「だけど…」
「だけど、お父さん、他の女の人のもとに行っちゃったって言いたいん
でしょ。でもね」
「でも?」
「実は、お父さん離婚したらしいの」
「うそでしょ?」
「先月、突然連絡あってね…。1年前に離婚したんだって」
「だって、向うにも子どもいたでしょ」
「どんな事情で離婚したのかは知らないけれど、ただね…お父さん今、
末期癌らしいの」
「え?何て?」
祥子には、母の言葉がよく聞き取れなかった。
「末期癌なのよ」
敏子は改めて、はっきりと伝えた。
祥子はショックだった。どれほど嫌い憎んだかわからない父なのだが、
悲しいかなたった一人の父親なのだ。その父が末期癌であるという。
「お母さん、賽銭箱に入れていた千円。お父さんの為?」
「そう…。やっぱり勘がいいのね」
「お母さん、まだお父さんのこと好きなの?」
「好き…ではないかな。やっぱり裏切られたわけだし。だけどね、縁あ
って夫婦していた人が病気になっているんだから、ほっとけないでしょ」
「なんだかわかんない」
「何が?」
「男と女って難しい」
「そうね。単純ではないかもしれないわね。そうだ、祥子。今度一緒に
病院へお見舞いに行く?」
「いやだ。私は父親だとも思っていないし」

祥子は慌てて、自分のカップに残っていた冷えかかっていた、コーヒー
を飲み干した。

                       つづく…