『雨弓のとき』 (18) 天川 彩
権現様の鳥居は、冬の澄んだ空に栄えて参拝者達を快く迎えてくれてい
るようだった。
祥子はいつものように鳥居の前で立ち止まり、一礼して中に入ったのだ
が、母の敏子はそのまま気にとめる風もなく中に入っていく。祥子は、
一瞬、母に祖母から学んだ神社の作法を伝えるべきか迷ったが、やめた。
母は祖母のような、信仰心というようなものがあまりないことは祥子に
もわかっていた。幼い日、祖母と神社や仏閣にいくとその都度母親に報
告してみたのだがいつも素っ気ない応答だった。あまり熱心に寺の話な
どした日には「子供がそんな線香臭いは話はするもんじゃありません。
縁起でもない」と、叱られたこともある。
祖母の信仰心がなぜ母に引き継がれなかったのか、祥子には疑問だった。
ただ言えることは、敏子にとって寺は葬式や墓のあるところで、神社は
お宮参りや七五三と初詣に行く場所という程度のものらしく、それぞれ
に自らお参りに行く、というタイプではなかった。
社殿に向かう途中、申し訳程度に露店が並んでいた。その地味な露店が
この神社らしくていいな、と祥子は思っていた。手水舎で、手と口を清
めようとしていたとき母が祥子の所作をじっと見て、まねしていること
に気がついた。祥子は純粋に嬉しかった。自分が素直になっていくと母
も素直になるのだろうか。父との離婚劇以来、数年間もぎくしゃくして
いた母とのわだかまりが、少しずつ消えていくように感じていた。
「ねえ、祥子。ここで2回手をたたいて、2回お辞儀だった?」
「あ、2礼2拍手一礼だから、まずお辞儀2回が先だよ」
「それからぱんぱんして心の中で願い事を唱えて、それからまたお辞儀」
「さすがねぇ。お母さん昔あまりこういうの得意じゃなかったから…。
結局この年になっても、こんな作法がまだわかんないの」
「いいじゃない。こうしてお参りに来ることが大事なんだから。やり方
じゃないよ。」
「ほんと、祥子はずいぶん大人になったのね。…じゃお参りしようか」
そう言うと敏子は財布から千円札を取り出すと賽銭箱に入れ、静かにし
ばらく祈っていた。祥子は敏子が賽銭に千円を入れたことも、静かにじ
っと祈っていることも不思議だったが、後ろに人が並びだしたので、あ
わてて、手を合わせ祈った。
「ねぇ、何をお願いしたの?」
神社を出てしばらく不忍通りを歩き、ようやく元日から開いているカフ
ェを見つけ席についたとき、敏子が顔を乗り出して聞いてきた。
「え?勉強に励めるようにと、就職活動がうまくいくようにかな」
「本当にそう?」
「どうして?」
「いや、なんだか嬉しそうな顔をしていたから。恋の成就でもお願いし
たのかと思ってね」
「いやだ、お母さんったら。そんなわけないでしょ」
「どうして?祥子も二十歳なんだし、恋の一つや二つもしないなんて、
不自然じゃない。好きな人、いないの?」
「え?うん。いいよ、私の話は」
「あー??できた?」
「何よ、その『できた』って質問は」
「ん?ムキになるのもおかしいし、こりゃ恋人できたわね」
「あ、お母さんこそ千円も賽銭を入れて何か特別なお願い事だったの?」
「別に」
「別にって、なにか隠してる」
「何を。そんな隠す事なんてないわよ」
「嘘だ。おかあさんたら何か隠そうとするとき、いつも『別に』ってい
うんだから。バレバレなんだから」
「変な子ね。あっ話そらしてる。やっぱり好きな人できたんだ。ね、ど
んな人?」
祥子は正直なところ、この年末も年始も朝から晩までずっと良一の事ば
かりを考えていた。根津神社に向かう途中で祖母の恋の話を聞いたとき
も自分と良一の恋が重なり合うように思え、初詣の参拝も良一との仲、
だけをお願いした。結ばれたクリスマスの日から、良一が帰省するまで
の3日間、ずっと二人は夜を共に過ごし、色々なことを飽きることなく
話していた。祥子の母親に対する心のわだかまりも、良一が少しずつ溶
かしていくように…。
良一が仙台の実家に帰る日、祥子は上野駅まで見送りに行った。
「正月は、実家のお母さんとちゃんといい時間過ごしなよ。どんなこと
があったにせよ、親に嫌悪感を抱いたり、親を認められないうちは、い
つまでも精神的に大人になれないままだと思うよ。俺もあっちで親孝行
してくるしさ。年末年始は、親孝行の時間にしようよ」
そこで良一から言われた言葉が、祥子の頭の中でリフレインしていた。
つづく…