『雨弓のとき』 (17) 天川 彩
玄関を出ると、外はチラチラと雪が舞っていた。近所の家も、どこも明
かりが灯っている。初詣に向かうのか、家族連れで歩く人の姿がやけに
目に付く。初詣に母と行くのは何年ぶりだろう。いや…母に対して素直
になったのは、何年ぶりだろうかと、祥子は思っていた。
「お母さんと初詣だなんて、久しぶりだね。何年ぶりだろう」
「祥子が、中学生の時が最後じゃないかな」
「お婆ちゃんが亡くなった年、初詣行くのやめて…それっきりだったか
もね」
二人は家からさほど離れていない久伊豆神社に向かった。越谷の鎮守の
社として、古くから信仰を集めているこの神社は、初詣には多くの人が
参拝に来ることは知っていた。が、着くと予想をはるかに越えた人々で
ごった返している。列の最後尾に並んではみたが、なかなか前に進まな
いようだった。
「今夜は冷えるわね。手も足もジンジンしてきちゃった」
敏子はストールをあごまですっぽり巻きなおし、手袋の上から両手をこ
すり合わせている。祥子も人ごみに酔いそうになってきた。
「ねぇお母さん、明日の朝、根津神社に改めて一緒に初詣行かない?」
「根津か…。そういえば、お母さん随分昔に一度行ったことあるけれど
祥子がそっちに引っ越しても、あまり行ったことないものね」
「あまりって。引っ越しの時に来ただけで、後はお母さん一度も来たこ
とないよね」
「だって、お母さんがそっちに行くの、祥子が嫌がるじゃない」
「まぁ、そんな日もあった…か」
「祥子、なんだかちょっと変わったね」
「そう?」
「大人になった」
祥子は、急に顔が赤らんだ。良一と出逢い、確かに自分でも何かが変わ
ったように感じていた。母親は、何か察しているのかと思いドキドキし
ていると、周囲から一斉に歓声があがった。
オメデトウ!オメデトウ!オメデトウ!
新しい年がやってきた。自分の人生が大きく変わる年になることを、ま
だこの時、祥子は知る由もなかったのだが、何かがやってくる予感がし
て大きく深呼吸した。
元旦は、お屠蘇を飲んでお雑煮を食べ、お節料理をいただく。
祖母から母に引き継がれている習慣は、毎年変わることなく行われてい
る。何もかもが当たり前のように準備されていることのありがたさを、
祥子はまだ、この時は全く感じていなかった。例年のように元旦の順序
に添って食事を終え、二人は駅に向かった。
北千住で地下鉄に乗り換えた途端、車内は通勤電車並みに混みあってい
た。明治神宮に向かう人々なのだろうか。若いグループがお祭り騒ぎの
ようにはしゃいでいる。大きな神社での初詣は、テーマパークにでも行
くようなイベント感覚なのだろう。根津駅に降りた時には、祥子も敏子
もホッとした。
階段を上がり、不忍通りに出ると、地元の人々がチラホラ根津神社に向
かっていた。その足取りはあくまでもゆっくりとしていた。祥子は自分
の地元に戻って来た、という安堵を感じていた。
かつて、祖母に連れられて来た神社に、今度は母を連れていく。そう思
うと何とも不思議な気がした。
「私、根津神社に最初に来たの、お婆ちゃんとなんだ。その時のこと、
今でも薄ボンヤリと覚えているの」
祥子は、祖母との思い出を話したつもりだった。が、母の返答は予想外
のものだった。
「え?祥子もお婆ちゃんと来たの?お母さんもお婆ちゃんと一度来たこ
とあるのよ」
「そうなの?」
「ここ、お婆ちゃんにとって青春の思い出の地らしいの。その話、聞か
なかった?」
「聞いていないよ」
「そうか…祥子は幼い頃だしね。やっぱり来ていたんだ。お婆ちゃん」
祥子は、祖母に青春の日があったことなど想像もできなかった。が、思
えば誰にも青春時代があって当たり前なのだ。
母の話によると、祖母は本郷のフルーツパーラーで女給さんとして働い
ていた頃があり、帝大の学生と恋に堕ち将来も約束していたらしい。二
人のデートの場は、いつも根津神社界隈だったらしいのだが、卒業間近
になってその男性は結核を患い、亡くなってしまったという。その後、
祖父と見合い結婚をして、敏子が生まれる。敏子がその話を聞いたのは
成人した後のことで、祖父も他界した後ということもあり、祖母と連れ
立って、一度だけ一緒に根津を歩いたそうだ。
「…で、悲しくなるからここにはもう来ないってお婆ちゃん言っていた
んだけど、そう。祥子を連れて…来たんだ」
「うん。確か小学校2年生の時だったかな」
「だから、祥子が根津に住むって最初に聞いた時、正直な話すごく驚い
たのよ」
この話は祥子にとっても衝撃的な話だった。
つづく…