『雨弓のとき』 (16) 天川 彩
「前も話したと思うんだけど、私の父はよそに女の人をつくって…。
でも母は、父が戻ってくると思ったのか、ずっと待っていたの。私から
見たら、世間体っていう体裁を取り繕うのに必死って感じたんだけど、
私が高校生の時に、結局は離婚。最悪でしょ。高校生になっての親の離
婚だなんて。友達にも恥ずかしくって言えないし…」
「そうか。苦しかったんだね」
良一は、祥子を後ろから抱きしめながら髪の毛を優しく撫でた。このか
弱い祥子の心の奥に、深い悲しみが詰まっていると思うと、胸が苦しく
なるようだった。
「なんだか、父も大嫌いだけど、母のことも嫌い」
祥子は、良一の腕をすり抜けて、くるっと良一の方を向き返した。
「どうして?」
「なんで、あんな父親を選んで私を産んだんだろうって…。毎日仕事ば
かりしているし…。私は普通の家庭に、どうして生まれなかったのかな
って思うの」
「普通の家庭…」
「お父さんがいて、お母さんがいて、そこに子どもがいる普通の家庭」
「それが普通の家庭?」
「だと思う。良一さんは、そんな幸せな普通の家庭に育っているから、
私のこんな気持ちはわからないと思うけれど」
「そんなことないよ。わかるけれど…、そんなに拘らなくてもいいんじ
ゃないかな」
「どうして?」
「いや、祥子ちゃんには言っていなかったけれど、うちの実家だって祥
子ちゃん流にいうと普通の家庭じゃないかもしれないから」
「うそ…」
「あ、いや…。うちのお袋と親父は互いに再婚なんだ。妹は親父の連れ
子で、俺はお袋の連れ子。ま、幼稚園の時だから、あんまりその辺りの
記憶はないんだけど。で、親父の母親つまり、一緒に暮らしているバー
ちゃんは、最近ボケてきちゃって…。お袋のこと、親父の前の奥さんだ
と思い込んでいるんだ。お袋は気にしていないけどね」
「だって、前聞いた時、そんな複雑な事情、何も言っていなかったじゃ
ない」
「複雑?複雑じゃないよ。父と妹とバーちゃんとは、確かに血は繋がっ
ていないかもしれないけれど、家族だから」
「でも、他人なんでしょ」
「家族ってさ、家族がそれぞれに自分たちは家族だな、って思えたら家
族なんだよ」
「私にとっての家族は…死んだお婆ちゃんだけかな」
「あのさ、俺は祥子ちゃんのお母さんは、きっといつも大切に思ってい
ると思うよ。ただ愛情表現がヘタなんだと思うんだ」
「会ったこともないのに、どうしてわかるの?」
「いや、祥子ちゃんの話を聞いていて、なんとなくそう思っただけだけ
どね。少なくとも俺は祥子ちゃんのお母さんにもお父さんにも感謝して
いるよ」
「え〜?どうして?」
「だって、祥子ちゃんに出逢えたのも、君のご両親が出逢い産んでくれ
ているからじゃない」
良一は、そういうと祥子を再び強く抱きしめた。祥子の頭の中は混乱し
ていた。あんな両親に感謝?絶対にそんなことはしたくない。でも、良
一と出逢えたのも、親が産んでくれたからで…。
そう思った途端、良一の唇が重なっていた。そして次の瞬間、祥子の体
がフワリと浮いた。祥子は良一に抱きかかえられ、気がつくとベッドル
ームに運ばれていた。
祥子は、良一の全ての温もりの中に優しく包まれながら、愛されるとい
う喜びを、この日初めて全身全霊で感じた。
第四章
祥子がその年のバイトを全て終えて、越谷の実家に戻ったのは、大晦日
の昼だった。家に入った途端、煮物の匂いが漂っていた。
「あ、ちょうどいいところに帰ってきた。あのさ祥子、棚の上のお重取
ってくれる?」
母親の敏子が、割烹着を着て、せわしそうに台所に立っている。気のせ
いか、ひと回り小さくなったように感じる母の髪には、白いものが目立
つようになっていた。祥子は、お重を手渡しながら、母親が確実に年老
いていっているのを、強く感じた。
日が暮れて、年越しの準備も全て終わり、紅白歌合戦も終盤に差し掛か
った頃、何処からか除夜の鐘が鳴り出した。
「祥子、たまには一緒に初詣に行ってみようか」
祥子は、なぜか素直に母の誘いが嬉しかった。
つづく…