『雨弓のとき』 (14)                天川 彩


良一は、そっと唇を離して祥子の顔を見つめると、急に愛しさが増して
もう一度強く抱きしめ直した。
「今日の夜、もう一度クリスマスパーティやり直そうよ」
祥子は、小さくコクンと頷き、良一の腕の中に顔を埋めながら、このま
ま時が止まって欲しいと思った。と、その時。包まれていたはずの体が
ぱっと離れた。
「あ、ヤバイ!今朝はミーティングだったんだ」
良一が、急に現実味を帯びた声で叫んだ。そして時計を見ながら大慌て
で出勤準備をし始めた。祥子はなんだ可笑しくなって、その後姿を目で
追った。
鏡越しに見える洗面での良一。髭を剃り、髪を整え…真っ白なYシャツ
に袖を通してネクタイを締める。女性とは全く違う男性の朝支度。遠い
昔見たことがあるような、おぼろげな記憶と重なっていくような気がし
た。


「悪い。走らなきゃ間に合わないから送ってあげられないけれど。でも
今晩また逢えるしさ。じゃ、また今夜」
マンションの前で良一はそういい残すと、根津駅に続く路地の中に消え
ていった。祥子は、しばらく後姿を見送り大きく一つ深呼吸をすると、
反対側の自分の家に向けて歩き出した。冬の朝だというのにさほど寒く
ない。終業式なのだろうか。布バッグや紙袋を手にした小学生達が皆、
嬉しそうな顔をして、元気よく祥子の横を走り抜けていった。

「は〜っ」
自分の部屋のドアを開けた瞬間、祥子は全身の力が抜けるような気がし
た。夕べ引いたままのカーテンも、六畳一間のこの部屋の匂いも、昨日
と何一つ変わっていない。昨日の自分と今日の自分。しかし何も変わっ
ていないようで、何かが少しだけ違っている。そう思った途端、祥子は
急に睡魔に襲われた。押入れから布団を引っ張り出して無造作に敷くと
その中に滑り込むように入った。


ー「祥子ちゃん、今日はお父さんが動物園に連れて行ってくれるって。
早く起きなさい」
母親、敏子の優しい声で、祥子は目を覚ました。花柄のワンピースに麦
藁帽子をかぶった若い母が、ピクニックバッグを持って待っている。そ
の後ろから開襟シャツを着た父親が話しかけてきた。
「祥子、象さん見たいかな?それともキリンさんかな?」
「お、お父さん…。どうしてここにいるの?」
「どうしてって、何言っているんだよ、祥子。あ、こいつ寝ぼけている
な。お母さん、早く祥子の着替え手伝ってあげなよ」
「祥子ちゃん、今日は美味しいお弁当も作ったのよ。みんなで動物園で
食べましょうね。さぁ、だから起きましょうね」
「お母さん、何?一体どういうこと?」
「だから、みんなでお出かけよ」
「お母さん、お父さんのこと許したの?」
「許す?どうして?」
「お母さん、お父さんのこと大嫌いなんでしょ。なのに私を産んだんで
しょ。嫌いな人の子なのに、産んだんでしょ」
「祥子どうしちゃったの?」
「お母さん、答えてよ。お父さんのこと嫌いなんじゃないの?ね、お父
さんも教えてよ。お母さんのこと嫌いだったのにどうして結婚したの?
ね、答えてよ」

プルルルルル…。プルルルルル…。
祥子はその音にハッとして飛び起きた。まだ心臓がドキドキしている。
その音はまだ鳴り続けていた。
その音が電話の音だと気が付いたのは、少ししてからだった。

「はい。もしもし」
「祥子?どうしたの?ずっと電話していたのに」
その声はさっきの優しい声とは全く違う、母親敏子の擦れた声だった。
「あ、お母さん。びっくりさせないでよ」
「何?」
「いや、さっき夢に出てきたところだったから」
「どんな?」
「まぁ、いいじゃない。それより何?」
「何って、本当に愛想のない子だね。いや…夕べもずっと電話していた
んだけど」
「あ、ちょっと出ていた」
「何時頃帰ってきたの?結構遅くまで電話したんだけど、出なかった
から、ちょっと心配していたんだよ」
「皆で飲み会してて…何時だったかな、帰ったの…。遅かったから」
「クリスマスに飲み会だなんて、祥子の周りはもてない女の子ばかりな
んだね」
「失礼な。ま、でもそんなところ。で、何なの用?」
「いや、用ってほどのことじゃないんだけど。昨日はクリスマスイブだ
から帰って来るのかな…なんて思ってさ。ショートケーキ、あんたの分
だけ買って、チキンも買っておいたんだけど。ねぇ、今日はこっちに帰
って来ない?」
「あ、ごめん」
「何?今日も用事あるの?」
「うん」
「そうか…。じゃしょうがないよね。いや、いつも毎年クリスマスは、
ほら、二人でチキン買って食べてたし。今年も一緒にするのかなーなん
て勝手にね。そうだよね。祥子も大学生だから、付き合いも多くなるだ
ろうし」
「…。ごめんね。あ、そうだ、お母さん。ちょっと聞いていい?」
「何よ改まって」
「私、お祖母ちゃんには何度も動物園に連れて行ってもらったことある
んだけど、お母さんに動物園へ連れて行ってもらったことあった?」
「どうしたの?え〜覚えてないなぁ。あったような、なかったような。
連れて行ってあげたいなぁとは何度も思っていたけど」
「例えば、お母さんと…お母さんと…お父さんも一緒に、とか」
「えっ?」
「ごめん。お父さんのことなんか持ち出して」
「嫌だ。思い出した。確かに一度、大昔にあったわ。でも、祥子覚えて
いたの?すっごく小さかったのに」
「いや、ふとちょっと…」
「まさか、お父さんに会いたくなったとか?」
「そんな…。ありえない。父親だと思っていないし」
「お母さんは、お父さんと夫婦の縁はなかったけれど、祥子とは親子な
んだし、会いたくなったらいつだって連絡先は教えるから」
「うそ…離婚してもお父さんと連絡取り合っているの?」
「連絡なんか取っていないけれど、でも何かあった時には、連絡先ぐら
い知っていた方がいいかな、なんて。会いたいの?」
「まさか!全くそんなことは思っていないし。ただ…」
「ただ?」
「ただ、どうしてお母さんはお父さんと結婚したのかなって」
「何よ急に。そんな電話で話せることじゃないでしょ。あれ…?祥子あ
んた、好きな人が出来たの?」
「そ、そ、そんなあり得ないし」
「あり得ないことないわよ。だって二十歳でしょ。好きな人ができない
方が不自然だもの。言いなさいよ」
「違うったら」
「ま、好きな人、もし出来たらお母さんに、ちゃんと紹介してね」
「はいはい」
「大晦日までには帰って来るんでしょ」
「うん。そうするよ」

祥子は、電話を切った後、改めて自分の両親のことを考えていた。物心
ついた時には不仲になり、ほとんど家に帰ってくることもなかった父。
母親に、気遣うところもあって、今まで父親との出会いや恋愛の話など
一度も聞いたことがなかった。しかし、この世に自分は存在していると
改めて感じている今、そのことを知りたいと強く思い始めていた。

                          つづく…