『雨弓のとき』 (13)                天川 彩


「乾杯!」
「乾杯!」
繊細なグラスがやや高めの音で響いた。

美しいロゼのシャンパン。飾られたテーブル。祥子にとって、まるで夢
の時間の始まりのようだった。グラスから、ほのかにいい香りが漂って
くる。祥子は、注がれたシャンパンを一気に飲み干すと、まるで手馴れ
ているかのように、シャンパンボトルのラベルを見ながら言った。
「これ、喉ごしがよくて美味しい」
「そう?気に入ってくれてよかった。どんなお酒にしようかと迷ったん
だけど、やっぱり今日はクリスマスで特別な日だし…思い切ってモエ・
エ・シャンドン ブリュッドロゼにしたんだ」
「もええ…え?」
「モエ・エ・シャンドン。言い難いよね。でも綺麗だし美味しいでしょ

良一はそういうと、グラスを照明の方に掲げて、シャンパンの細かな泡
と美しい色合いを楽しんでいるようだった。祥子も慌てて、同じように
照明にグラスを掲げてみた。確かに、綺麗だ。
「本当に綺麗…」
「実はさ、うちはアパレルだから、会社のお得意様を招いたパーティな
んかも時々あるんだけど、そんな時には必ず出すシャンパンなんだよ」
良一は喋りながら、空になったグラスにシャンパンを注ぎ、祥子が作っ
た料理を食べ始めた。祥子は、良一の話にやや気後れするのを感じてい
たが、少し背伸びをして注がれたシャンパンをまたしても一気に飲み干
していた。
「モエえどん、本当に美味しい…」
「いや、あのさ…ま、いっか。シャンパンも美味しいけれど、祥子ちゃ
んが作ってくれた、この料理の方がもっと美味しいよ。さぁ一緒に食べ
ようよ」
「ありがとう」
祥子は何より嬉しかった。良一に美味しいと言われたい一心で、本を買
い込み、徹夜までして作った料理だ。良一がおいしそうな表情で食べて
くれている顔を見ているだけで幸せだった。
「どうしたの?食べないの?」
「なんだか、嬉しくって…」
「僕だって、祥子ちゃんとこうやって一緒にクリスマスを過ごすことに
なるだなんて、あの日までは思ってもみなかったから」
「そうだ、あの部長さん、どうしている?」
「カミヤ商事の吉田部長?」
「うん。私たちの恋のキューピット」
「ま、確かにそうか。この前も、うちの新作パーティに来てくれたから、
会ったところだよ」
「その後のことは、何にも言っていないの?」
「どういうこと?」
「だから、私たちが付き合うことになった…とか」
「まさか、そんなこと言っていないよ。普段から、プライベートな話は
ほとんどしないしさ。
あ、でもそういえば、トモミ君が何とかって、言っていたんだけど、も
しかしてトモミ君って、祥子ちゃんと最初に会ったとき、一緒にいたあ
の子?」
「トモミ…?あ、三浦朋美…?そのミウラトモミがどうしたの?」
「いや、だから…僕もよくわからないんだけど、吉田部長が、『君も会
ったことがあるトモミ君だが、来年お世話になると思うよとか何とか』
ってさ…」
「え?来年?何それ…」
「どうしたの?何か怒っている?」
「ううん。別に」
そう言うと、祥子は3杯目のシャンパンも一気に飲み干した。

「ねぇ、飲むペース少し下げて、さ」
「へぇ…。吉田部長、結局、あのトモミと付き合っているんだ」
「それは知らないよ。今まで部長が言っていた、そのトモミ君って誰の
ことだったのかわからなかったぐらいだから。そうか、あの子か。そう
したら彼女だって僕らの恋のキューッピットだよ」
「そうなる…かもしれないけれど、私、彼女のこと、あんまり…」
祥子は、急にコンパニオンバイトの日の違和感を思い出した。美しい華
を競うような、女たちの群集の中で、浮いていた自分。なんとなく惨め
な思いをしたあの日…。祥子は、良一と朋美が再び何処かで会うのかと
思うと漠然と嫌な予感がした。
「来年、もしかして良一さんの会社に入るの?」
「そんなことはわからないよ。もういいじゃない。そんな話」
「そ、そうよね。わからないことだし…。でも、そうか…良一さんの会
社では、パーティの時、必ず、このモエえどんが出るんだ」
「いや、モエえどんじゃなくって、モエ・エ・シャンドン。うちの会社
だけじゃないよ。世界のファッションコレクションのオフィシャル・シ
ャンパンとして認定されているんだよ」
「凄い…。なんだか、遠い世界の話みたい」
「確かに歴史も古くてね」
「へぇ〜」
祥子はボトルを手に取り、マジマジとラベルを読んだ。が、わかる筈も
ない。
「もっと少し知りたい?」
「うん!」
祥子は、シャンパン話を聞きたかったのではない。ただ、良一の世界に
もう少し触れたいだけだった。あの秋の日に出逢い、近所の散策を二人
でするようになってから、少しずつは良一のことを知るようになった。
しかし、まだまだ知らないことばかり。
良一が知っていること、良一が見てきたものを、全て教えて欲しいと思
った。

「ちょっと、このシャンパンを語らせると、うんちく爺さんのようにな
ちゃうよ。いい?」
「いい」
祥子は既にわかっていた。良一が好きな場所や、好きな物を語り始める
と長くなることを。
でも、目をキラキラと輝かせて話している良一を見るのが好きだった。
以前、良一が、会社名になっている「イニシュモア」という名は、ある
島の名前にちなんでいる、という話をしてくれた時には、一時間近く熱
く一人で語っていた。祥子はそんな良一が羨ましくもあった。自分は、
そんなに熱く語れるものがあるだろうか…。良一は自分と一緒にいて、
退屈してはいないだろうか…。時折、そんな不安にかられることもあっ
たが、今はただ、良一の世界に少しでも触れたいと思っていた。

「そもそもシャンパンっていうのはね、フランスのシャンパーニュ地方
特産の発砲ワインのことで、シャンパーニュ地方以外の場所の発砲ワイ
ンはシャンパンとは呼ばないんだ。そのシャンパーニュ地方の名門中の
名門が、モエ家。1743年、クロード・モエに創立されて以来、各国
の貴族や皇族たちの中で愛され続けているんだけれどね、実はあの有名
なドンペリはさ………」

しばらくは、興味深く真剣に聞いていた祥子だったが、どうしたことか
良一の声がどんどん耳から遠ざかり…瞼は鉛のように重く…頭の中も真
っ白になり…。

良一は、向かいの席で祥子がいつの間にか眠ってしまっていることに、
ややしばらくしてから気がついた。
「ね、ね。祥子ちゃん、眠ちゃったの?」
幾度かゆすったがも、祥子は起きる気配はない。どうやら、徹夜の疲れ
と、シャンパンの飲みすぎで、かなりの酔いつぶれてしまったらしい。

仕方がなく、良一は、料理を少し小皿に取ると、残りの料理や丸いクリ
スマスケーキの箱は全て冷蔵庫の中にしまい込んだ。そして一向に起き
そうにない祥子を抱きかかえ、自分のベッドに寝かせた後、クリスマス
特番のTV番組を見ながら一人で料理と残ったシャンパンでチビチビと
飲んでいた。

「ん?ど、どこ??」
祥子が良一のベッドの中で目を覚ました時、自分は何処にいるのかわか
らなくなった。
見たことのないベッド、見たことのない窓、見たことのない家具…。
しかし、何処かで確かに見たアンディウォーホールの絵。ソファーの上
で毛布をかけて横になっているのは、良一だ!

祥子は、なぜ自分が良一のベッドの中で眠っているのか、また、なぜ良
一がソファーで眠っているのか理解に苦しんだ。
「ア、イ.テ、テ、テ…」
体を半分起こしただけで、頭が強烈に響く。飲みなれていないのに、調
子に乗ってシャンパンをがぶ飲みした後の二日酔いらしい。
カーテンからもれている外の空気感は、どう見ても朝のものだった。


ウッソー。
クリスマスは?
お料理は?
丸いケーキは?
せっかくの女の子の決意…は?

祥子は親友、明日香からのアドバイスで、三枚一組千円の木綿の下着で
はなくはなく、レースやリボンが可愛いらしい下着もつけていた。
生まれて初めての、ロマンティックなクリスマスイブは、まさにこれか
ら…という時だったのに、シャンパンを飲みすぎたあげく、酔っ払って
眠ってしまったということが、酷く悔やまれた。
こんな醜態をさらした自分は、きっと良一に嫌われたに違いない、そう
思うと祥子は、なんとも悲しくなり、泣けてきた。

「しょ、祥子ちゃん。夕べは、何もしていないないよ。誤解しないで。
大丈夫なんだから」
祥子の微かな泣き声に目を覚ました良一は、慌ててベッドのそばまでや
ってきた。てっきりあらぬ勘違いをして、祥子が泣いているのではない
かと慌てている。
「あのね。僕は夕べ、指一本すら触れていないよ。あ、それは嘘か…。
君が眠り込んでしまったものだから、ベッドまでは運んだけれど、その
後は、僕は残りのシャンパン飲んで、それからあっちのソファーで寝て
いたから、本当に祥子ちゃんが心配するようなこと、何もしていないか
らね」
「ごめん、そうじゃないの」
「ん?」
「ゆうべは、あんなに大切な日だったのに、本当にごめんなさい」
「な、なんだ。よかった。変な勘違いしちゃったな。なんか格好悪いな」
「ううん。でも、ありがとう」
「きっとさ、かなり疲れていたんだよ。一生懸命、あんなに美味しい料
理を徹夜で作ってくれたりしてさ。僕も調子に乗って、どうでもいい話
しを長々とさ…。いい加減やめればよかったのに、退屈させちゃったか
ら、眠くなったんだな…って反省したんだ。夕べ」
「ううん…。やっぱり私の方が悪いの。お酒、本当は弱いのに、つい調
子に乗ったのは私だから。本当に大切な日を台無しにしちゃって…ごめ
んなさい」
「いや、僕の方がもう少し気がついてあげるべきだったね」

良一は、祥子が可愛く、そしてとても愛おしく感じて頭を優しくなでた。
そして、祥子の少し涙で濡れている唇にそっとキスをした。

                                
                      つづく…