『雨弓のとき』 (12)                天川 彩


恋をすると時間軸が移動するのだろうか。あっという間に約束のクリス
マスイブの日はやってきた。良一へのクリスマスプレゼントとして選ん
だのは、来年の手帳。深緑色のシッカリとした牛皮のカバーがかかって
いる。良一の鞄や持ち物に合いそうな、そんな手帳だ。ネクタイやマフ
ラーなども考えたのだが、何といっても良一はアパレルメーカーの社員。
洋服やそれらに付随したものは、やはり選びにくかった。しかし、そん
な理由以上に、手帳は自分との約束をいっぱい書き込んで欲しいという
願いを込めてのプレゼントでもあった。

祥子は、朝から台所に立ちっぱなしだった。いや、厳密には前の日から、
手の込んだ料理を仕込んでいた為に、ほとんど寝ていない。約束の時間
が近づき、祥子は新たに購入した赤と黒のクリスマスカラーのワンピー
スに着替えた。そしてプレゼントが入った袋と出来上がった料理を両手
いっぱいに持って、玄関を出た。

夕方の地下鉄駅。
祥子の目には、心なしか人々の顔がほころんでいるように映っていた。
いつもは通勤鞄しか持ち歩いていないサラリーマンたちがケーキの箱や
紙袋片手に電車から降りてくる。きっとそれぞれの人が、家族のもとへ
急いで帰るのだろう。祥子は、そんなサラリーマンたちの姿を見ている
うちに、急に自分の父親のことを思い出していた。あの頃、父はクリス
マスイブの日、何処でどんな時間を過ごしていたのだろう。母親以外の
女性と、自分以外の子どもたちのもとへ、ケーキを買って毎年帰ってい
たのだろうか。母との離婚後、長い間、父親という存在すら忘れていた
のに…。祥子は忘れかけていた父への怒りの感情が急に甦っていた。

「あっという間に、今日になっちゃったね」
改札口から出てきた良一が、ケーキの箱をかざしながら、屈託のない笑
顔で祥子に近づいてきた。良一の顔を見た途端、祥子はほんの寸前まで
あった父親への怒りの感情が、一瞬のうちに何処かへ消え失せていくの
を感じた。
―自分にとって、今、一番大切な人は、目の前にいる―
そう思うだけで、祥子の心の中にへばりついていたドロドロとしたもの
が、少しずつ洗い流されていくようだった。

「さぁ、どうぞ」
祥子は緊張しながら良一の家の中に足を進めた。センスのよい家具がこ
ざっぱりと置かれ、壁には、アンディウォーホルの絵が何枚か飾られて
いる。自分の六畳一間のアパートとは全く違う空間だ。冷蔵庫からシャ
ンパンを取り出したり、グラスを手際よく用意している良一の後姿を見
て、祥子は気後れしていく自分を感じていた。
「家、綺麗…」
「祥子ちゃんが初めて来るから、あわてて大掃除したから。お陰で一足
早い、年末大掃除が終わったよ。いつもは、散らかっているんだから」
「そうなんだ。でも、それにしても私の部屋と大違い」
「祥子ちゃんの部屋って、どんな感じ?」
「うちは、ほら。六畳一間のアパートで…西日がよく当たるから、畳な
んかも色が黄色くなっているし。庶民、って感じの部屋」
「でも、確か窓から木が見えるって言っていたよね」
「まぁそれだけは自慢なの。春や秋なんか、枝に小鳥も飛んで来るし」
「それは素敵だね。ここなんか、窓の外は向かいのマンションなんだか
ら。祥子ちゃんの部屋の方が環境いいよ」
「嘘でもそう言ってもらえると嬉しいな」
「嘘じゃないよ」
祥子は、良一の優しさが嬉しかった。

良一は、話しながらも次々と皿に盛り付けられていく祥子の手料理に驚
いていた。とても二十歳そこそこの女の子が一人で作ったとは思えなか
った。
「ねぇ、祥子ちゃん。これ全部作ったの?」
「パーティ料理の本買ったんだけど、見ているうちに、あれもこれも、
作ってみたくなって」
「大変だったでしょ」
「ちょっと、頑張っちゃった…かな。実は昨日の夜から、ずっと台所立
ちっぱなし」
「ウソ、マジで?それにしても、二人でこれだけ食べられるかな」
「何品かは、残ったら冷凍できるものだから、よかったらまた今度食べ
欲しいなーなんて」
「なんだか、本当に嬉しいな。そうだ、リクエストのケーキは…ほら、
これだよ」
良一がケーキの箱を開くと、祥子が憧れていたサンタさんの乗った丸い
デコレーションケーキが現れた。料理の量といい、ケーキの大きさとい
い、とても二人で食べ切れそうにもなかったが、祥子はただただ嬉しか
った。子どもの頃から夢見ていた、家で過ごすクリスマスパーティだ。
大好きな良一が目の前にいて…祥子はそう思った瞬間、少しクラクラし
た。

「はい、それじゃ、全て整ったから…メリークリスマス!」
ポンッ!
全てのテーブルセッティングを終えて、席についた祥子の前で、良一が、
シャンパンの栓を開けた。今までも、明日香など大学の友人たちと、た
まに居酒屋などに飲みに行く機会もあったし、実家に帰ると、母親の
敏子が成人式以降はビールを出してくることもあった。しかし、シャン
パンは飲んだことがなかった。
良一が細長いグラスに、細かな気泡と共に注がれるお酒。祥子は、自分
が大人の女性になったのだと、少し背伸びしたい気分になった。
                                
      つづく…