『雨弓のとき』 (11)                天川 彩

「あのさ、クリスマスイブだけど、何か用事ある?」

良一の突然の声に、祥子はビックリした。祥子も調度クリスマスのこと
を考えていたところだった。大切な人と過ごす日。クリスマス。いつの
頃からか日本でもそんな風潮が広がっていることに、祥子は子どもの頃
から抵抗があった。
不仲だった両親が、クリスマスなど共に過ごすはずもなく、枕元にサン
タさんからのプレゼントが届いたことはなかった。クリスマスの思い出
といえば、祖母が毎年買ってくれた菓子入りのサンタブーツ。それをテ
レビの上に飾ることが、祥子のクリスマスの唯一の楽しみだった。しか
し、祖母が亡くなり、その楽しみも途絶えてしまった。母親の敏子が、
毎年、イブには仕事帰りにフライドチキンとショートケーキを買って来
てはくれていたが、ラウンド型のクリスマスケーキは一度も出たことも
ない。昨年、母のもとを離れて、初めて一人暮らしを始めた年、イブも
クリスマスもアルバイトをした。

しかし、今年は…微かな期待を込めて予定は空けていた。だから、良一
からクリスマスの言葉が祥子には小躍りするほど嬉しかった。

「ううん。これといって、別にないけれど」
「いや…前からクリスマスイブに食事に誘いたいなって思ってはいたん
だけどさ、なんとなくタイミングがさ。でも、今日…はっきりしてよか
ったね」
良一が手を握ったまま祥子の顔を覗きこんだので祥子は照れながら、小
さくコクンと頷いた。

「その日は平日だから、帰りは少し遅くなるけれど…。この近所なら、
何処かレストランの予約は、まだいけるんじゃないかな。祥子ちゃんは、
何が食べたい?」
「私は、何でも」
「何でもって、クリスマスだからこそ食べたいものとかない?」
「クリスマスだからこそ?」
「普通の日じゃないしさ」
「それなら、丸いケーキが食べてみたい…かな。サンタさんとか上に乗
っているヤツ」
「え?それは難しいリクエストだな。丸いケーキか…」
「子どもの頃から、一度食べてみたかったの。丸いまんまのケーキ」
「一度も食べたことないの?誕生日とかにも?」
「…。私の母、もともと甘いものがあまり好きじゃないし…。誕生日も
クリスマスも、いつもショートケーキだったから」
「そうなんだ」
「テレビとかで、誕生日に丸いケーキに蝋燭つけて、ふーって消すやつ、
やったこともないし。ね、クリスマスもケーキに蝋燭つけて、ふーって
するの?」
「普通しないと思うけど…」
良一は、急に祥子を抱きしめたくなった。普通に当たり前だと思ってき
たこと出来事が、祥子にとっては当たり前ではなかったのだ。抱きしめ
たい衝動を抑えて、さっきから繋いでいる祥子の小さな手を強く握り締
めた。

「ねぇ、それじゃ丸いケーキ買って来て、家でクリスマスしようか?」
「家って?」
「俺んちとか…じゃ嫌かな?」
「良一さんの家?」
「狭くて汚いけれど、その日は掃除しとくしさ。チキンとか何か、帰り
買い込んできてさ」
「それじゃ私、お料理作って持って行きます。こう見えて、何でも結構
作るんですよ」
「なら、イブの日には、大きな丸いケーキ買って帰るよ」
「はい!」
「じゃ、一応、家を教えとくよ。こっちなんだ」
良一は、祥子の手を引いて、細い路地を何度か曲がり、下町によく馴染
んだ低層マンションの前まで連れて行った。
「ここの三階の奥から2件目が俺んち」
下から覗き込んでもよくわからない。入り口はオートロック。この辺り
のオープンな住宅事情の中で厳重な入り口はややチグハグな気もしたが、
逆に高級な部類のマンションなのだということは一目でわかる。
「へ〜。こんなマンションに住んでいるんですね。高級そう」
「いや、そんなことないんだよ。ただ東京に来てから、ずっとこんなタ
イプのマンションにしか住んでいなかったから、最初は、よかったんだ
けど…。祥子ちゃんと出会ってからこの辺りを毎週のように散策してい
るとさ、なんか折角こんなエリアに住んでいるんだから、古い日本家屋
もいいよなぁって最近思うんだよね」
「私の家は、日本家屋なんて格好いいものじゃないけれど、古い木造の
アパートで部屋の窓から大きな木が見えるんですよ」
「そうなんだ。じゃ、今からその家の前まで送っていくよ」
「あ、大丈夫です。近いですから一人で帰れますし」
「いや、彼女を送らず、自分の家の前まで送らせて帰る男なんていない
よ」
「か、彼女ですか」
「でしょ。彼女だよ」
良一は、繋いでいた手をさっと離すと、祥子の肩に手を回した。祥子は、
足をどう出して歩いたらいいのかわからなくなった。肩にも腕にも、必
要以上に力が入ってしまう。
祥子はカチカチになりながら、歩き続けた。良一のマンションから祥子
のアパートまでは、およそ十分。こんなに近くで暮らしていたことに、
祥子は改めて驚いた。

「それじゃ、木曜日に」

祥子は、もしかして恋人の別れのキスというものがあるのかと思ったが、
いともあっさりと見送られた。

部屋に戻り靴を脱いだ瞬間、疲れがどっと出て、玄関前にへたり込んだ。
しばらくは、そのまま放心状態で座ったままだったのだが、ふと床の冷
たさがジンジンお尻に染み込んでくる。祥子は重く感じる体を引きずる
ように、ようやく部屋の奥まで移動した。
そして、お気に入りの大きなクッションを抱え、明日香に電話をかけて、
この日の一部始終を一時間近く話した。

「で、彼の家に行くってことはさ…やっぱりそれなりに、考えておいた
方がいいよ。子どもじゃないんだしさ」
「だけど、クリスマスケーキを食べようってことで、家に行くことにな
っただけだし。それだけだからさ」
「彼と付き合っているんでしょ。なら、そんなことになっても、いいじ
ゃない」
「だけど…。え…。ちょっと待って。家に行くって、そんなに…そんな
ことなの?」
「もう、本当に祥子は恋愛に関しては、ちょっと、なんていうかなぁ」
「私、どうしたらいい?」
「どうって、なるようになるんじゃないの?でもクリスマスなんだし、
ロマンチックに過ごしたらいいじゃない」
「明日香は、どうするの?」
「私?私は今夜まで彼と一緒に過ごすけれど、明日、熊本の実家に帰る。
今、彼はシャワー浴びているから言えるけれど、別にクリスマスだから
って、彼と一緒に過ごしたいとか思わないの。私、クリスマスは家族で
過ごしたい派なのよね」

祥子は明日香のことが時々、理解できなくなる。
人として好きとか嫌いとかではなく、恋愛や家族に対する思いは、人そ
れぞれなのだと感じるのだ。明日香の家族には会ったことはないが、話
を聞いているだけで、明日香がどれほど家族のことが大好きなのかがわ
かる。どうしたら、そんなに家族という存在を好きになれるのか、わか
らない。なのにどうして恋人を本気で好きにならないのか、わからない。
更にいうならば、それほど好きでもない男性に、なぜそう簡単に抱かれ
るのか、それもわからない。

「あ、彼シャワーから出てきたから。じゃ、いいクリスマス過ごしてよ
ね!そうそう。年賀状出すからさ、祥子もちょうだいね」明日香は、早
口で喋ると、一方的に電話を切った。
―年賀状か―
そんなものも、今までほとんど出したことがない。面倒くさいとか煩わ
しいとかではなく、出したいと思う相手が今までいなかったのだ。
クリスマスや年賀状…。今まで祥子の人生の中で色あせていたものが、
少しずつ鮮やかに彩りはじめていた。                                        つづく…