『雨弓のとき』 (10)                天川 彩


喫茶店から出ると、すっかり外は暗くなっていた。昼間より、気温がか
なり下がっているのか、この冬最初の初雪がチラチラと、外灯に照らさ
れ光っている。
「う〜寒い」
祥子は何を話していいかわからず、とりあえず差し障りのない言葉を口
に出してみた。しかし言葉とは裏腹に、顔は火照てり真っ赤だった。良
一と出会ってから、毎週のように会い、近所を散策したり食事をしたり
はしていた。しかし、先週と今とでは、全く違う。今日はじめて良一か
ら言われ、今、二人は付き合っている。粉雪がチラついているのに、本
当は寒いという感覚も、外を歩いているという感覚も祥子にはなかった。

「ほんと寒いね。ほら」
良一は巻いていたマフラーをさりげなく取り、祥子の首もとに巻いた。
祥子は、嬉しさと恥ずかしさでマフラーに顔を少しうずめてみせた。良
一のコロンの匂いが微かに香る。祥子は、その香りを深く吸い込んでみ
た。と、良一のガッシリとした腕の中に抱かれているような気がして、
一瞬クラッと目眩がして、よろけてしまった。
「大丈夫?」
その瞬間、良一の腕の中にふわりと包まれた。良一の顔が近くにある。
祥子は、更に恥ずかしくなりマフラーを目の下まで急いで引き上げて、
良一の顔をマジマジと見た。

まつ毛が長い…
唇の形が整っている…
眉毛の上に小さなホクロがある…

今まで、全く気がつかなかった良一の顔がそこにはあった。

「どうしたの?疲れた?」
「あ、ごめん。私、おっちょこちょいだから」
祥子は慌てて笑顔をつくり、体勢を整えなおして再び歩き出そうとした
時だった。良一が「寒いしさ…」と言いながら、さっと手を繋いできた。
突然のことに、祥子は心臓が止まるかと思った。大きくて、少しゴツゴ
ツとした手。小学生の時、卒業お別れフォークダンスで、体育館で繋い
だのが最後の異性の手だ。
突如、どうでもいい小学校時代の回想が祥子の頭の中でぐるぐると巡る。
祥子は自分がひどく動揺していることがわかった。


良一は、良一で考え事をしていた。祥子の手を握りながら「付き合う」
ということに、しばらく臆病になっていた自分を振り返っていた。
四年間付き合ってきた彼女と、結婚直前になって破談になった心の傷は、
自分の想像以上に深かった。縁がなかったのだから、悩むのはやめよう、
幾度そう思っても押し寄せる後悔の念。
新居も決まり、家具を選びに行った日、ほんの些細な意見のくい違い…
のはずが、話がエスカレートして、遂には別れ話になってしまった。

『前々から言おうと思っていたんだけど、あなたは悪い人じゃない。け
れど…、あなたと結婚しても、私が求めている幸せがないような、そん
な気がするの。今日まで言えなくてごめんなさい。私達の結婚、やめま
しょう』

放心状態になっている良一を残して、彼女はさっさと帰ってしまった。
その後、彼女は電話にすら出ることもなく、その後の事後処理は、全て
メールのみだった。結局、マンションや挙式場のキャンセル手続きも、
親戚や友人、上司や高校時代の恩師にまで送っていた招待状の取りやめ
葉書の送付作業も、良一が全て一人で行った。

―幸せ価値観の相違―

何処かで、自分なりに理由はわかっていた。しかし荒れる気持ちをどう
処理していいかもわからず、朝まで飲み明かしたり、風俗に行ってみた
りと、ややしばらく生活が乱れていた。しかし、そんな自分に嫌気が指
して、再び仕事に情熱を傾け出した、そんな矢先だった。
祥子と偶然出逢ったのは。
気がつくと、毎週末、祥子と共に近所を散歩していた。そして、日に日
に祥子のことが好きになっていたのだが、自分の気持ちを抑えようとし
ていた。
祥子に、今日「私たち、どんな関係なの?」と切り出されなかったなら、
このままなんとなく、始まっている関係がいいと思っていた。気がつい
たら、フェードインしているが、何か面倒なことが起こったなら、さっ
さとフェードアウトできる関係。

責任のない関係。割り切った関係。自分が傷つかない関係。etc…。

良一は、自分でもズルイ奴になったと思っていた。が、突然の祥子の真
正面からの質問に、自分の口から「付き合っている」という言葉を吐い
ていた。

祥子の小さくて華奢な手を握り締めながら、彼女となら幸せの価値観が
一緒かもしれない、と良一は思っていた。

                          つづく…