『雨弓のとき』 (1) 天川 彩
序章
朝方、祥子は突然目が覚めてベッドから半身を起こした。カーテン越
しに映る外は、まだ夜の気配を呑み込んだままだ。隣で夫の静かな寝息
が聞こえる。ベッドの上に置いてある目覚まし時計の針は、午前四時を
指している。この夫や娘を起こすまで後三時間。なぜ、こんなに早く目
が覚めたのだろう。祥子は少し痺れた頭の中で、何かをぼんやり考えて
いた。
「!」
あの砂混じりの風の匂いが祥子の鼻先をくすぐった。深い呼吸のよう
な遠いさざ波音が、何処からか聞こえる。懐かしい感覚…。あの日の記
憶が、ゆっくりゆっくり蘇る。
祥子は軽く眩暈がして、ベッドに倒れこんだ。
再び目が覚めた時、高梨祥子は寝坊していた。慌てて寝室を飛び出し
てリビングの扉を開けると、食卓テーブルの上に乗せたランドセルから、
小学2年生の娘、真由子がプリントを取り出しているところだった。
「あ、お母さん起きた?」
「ごめん、真由子。今、パン焼くから待っていてね」
「朝ご飯なら、もうお父さんと食べたよ」
「うそっ。お父さんは?」
「とっくに出て行った。『お母さん、疲れてよく眠っているようだけど、
学校へ行く前に、真由子が必ず起こしてあげなさいよ』って。だからも
うすぐ起こさなきゃ、って思っていたの」
「ほんと、ごめん」
「いいって。お仕事で疲れているんでしょ。それより、これ来週までに
提出のプリントだから、忘れないでね」
「はいはい」
「お母さん、はいは一回だけ。本当にもう…」
「そうだ。今日は残業無いから、今晩は久しぶりに一緒にオムライス作
ろうか」
「やった〜!じゃ楽しみに帰ってくる。約束だよ。絶対遅くならないで
ね」
「わかっているって」
「あっ!!真由子が遅刻しちゃう」
「ホントだ。じゃ、気をつけて行ってくるのよ」
「は〜い」
跳ねるようにして玄関を残し飛び出して行った真由子を見送ると、祥
子は熱いシャワーで体の細胞と薄ぼんやりとした意識を起こした。
朝の身支度を手早く済ませた後、再び寝室に戻り、隅のドレッサーの前に座
る。手慣れた手つきで、いつもの様に世間仕様に塗り替えていきな
がら、あっという間に出来上がった外出用の顔。それを鏡越しに入念に
チェックしながら、ふとさっき見送った真由子の顔が自分の顔と似てき
ていると思った。同時に、祥子自身も自分の母親である敏子に、やはり
よく似ていると思った。親と子。
その目に見えぬ糸は、どこから繋がっているのだろう。しかし真由子でも
敏子でもなく祥子自身の黒い瞳が、鏡の向こうから力強く見つめ返している。
今朝、久しぶりに思い出したあの記憶がそうさせるのだろうか。
祥子は、その自分の黒い瞳に頷くと、ドレッサーの椅子から力強く立ち上がった。
第一章
祥子の運命を変えたのは、大学ニ年の秋の日。その日は展示会コンパ
ニオンという不慣れな短期バイトの最終日だった。同じブース担当にな
っていた三浦朋美が、バイト終了後、更衣室で妙な猫なで声を出して祥
子を誘ってきた。
「ねぇ祥子ちゃん、今日この後、暇?」
「えっ?」
祥子は予想もしていなかった突然の誘いに戸惑った。
「何か用事あるの?」
「別に用事はないですけれど…」
「じゃ、他に何か予定とか?」
「いえ、予定は無いんですけれど」
「それなら暇じゃない。私たち今日でお別れでしょ。もうちょっと話し
しようよ。就職の話とか」
「はぁ」
「それに、ちょっと理由あってレストランに付き合って欲しいいなぁ…
って」
「でも」
「勿論、お金のことは気にしないで。お金はいらないから」
朋美は、モデル張りの風貌だった。更にそれを強調するかのような豊
満な谷間が見えるブラウスを着て、太股をあらわに出した超ミニスカー
ト姿。まるでメス臭を振りまいているかのようで好きになれなかった。
しかしそんな容貌以上に一方的な物言いが嫌だった。
「いや…そういうことではなく」
「やっぱり、何かあるの?」
朋美に限らず、展示会のコンパニオンバイトに来ていた女性達はあき
らかに祥子と違うオーラを発していた。その違和感からやっと開放され
た安堵で、祥子は一刻も早く帰りたかった。
「ごめんなさい。足がちょっと…。今日、新しいパンプス履いてきちゃ
ったので、靴擦れで今日はあまり歩けなくて…」
「なんだ、それならタクシーで行きましょう。よし、決まり!」
「…」
靴擦れで、足が痛くなっていたのは事実だったが、薄めの言い訳など、
強引な朋美の前では意味がなかった。祥子は、朋美の傲慢さより、はっ
きり断りの言葉が言えない自分の気の弱さが情けなくて、小さく一つ溜
息をついた。
「いらっしゃいませ」
店の扉が開くと、イギリス伯爵家に長年勤めている執事のような老紳
士が立っていた。朋美は、背筋を反らして胸を突き出し、女であること
を強調しながらゆっくりと歩み寄り、待ち合わせであることを告げた。
「こちらへどうぞ」
老紳士に先導されて店の奥に進む途中、朋美は祥子の方を振り返って
ニヤリと笑い小声で言った。
「なかなかの店よね」
祥子は居心地が悪かった。高級そうな家具、紳士風のボーイ、広々と
した空間で静かに語りあっている大人たち。何もかもが自分とは不釣合
いだと思った。救いがあるとしたら、この日はお気に入りのワンピース
と、靴擦れになりながらも真新しいパンプスを履いていたことぐらいだ
った。
つづく…