『雨弓のとき』 (最終回)                天川 彩



祥子の目から大粒の涙がぽろぽろこぼれ落ちた。

「何かよほど辛いことがあったんじゃね。人生には色々なことがあ
るから。悲しいことから逃げることも出来ないんじゃよ。そんな時
には、思い切り泣くしかない。わしらは息子を海の事故で亡くした
ことがあってな。子どもに先立たれるっていうのは、本当に辛いも
のなんじゃよ。その時は、自分たちが死ぬより辛くてな…」

お爺さんが遠い目をしながらそういうと、お婆さんの手をしっかり
と握り締めた。お婆さんは、大きく頷くだけだった。

祥子は、二人の姿を見ながら、自分が死を選んだとしたら、母は。
そして良一や真由子は、生涯どれほど大きな悲しみを背負いながら
生きていくことになるのだろうかと思った。

祥子が俯いていると、お婆さんは「でもね…」と続けた。

「でもね…。涙が全部出た後は、いつまでも悲しんでばかりいたら
いけないって、お爺さんも私も思ったのよ。息子は自分の運命を受
け入れ、神様のもとに旅立ったのに、私たちが受け入れられなけれ
ば、息子が天国で悲しんでいる気がしたの。そして、自分たちが生
きていることも全て受け入れなきゃって思ったらね。息子が天国で
凄く喜んでくれたように感じたの」

「自分が生きていることを受け入れる…ですか?」
「そう。自分に起ること、全てを受け入れるってことかしら」

祥子は、愕然とした。
思えば幼い頃から、自分に起ること全てを否定し続けてきたような
ものだと思った。

その時、「人生、悲しいことばかりじゃないんじゃよ。ほら」とお
爺さんが窓の外を指差した。

窓越しに、海岸の上に虹がかかっているのがぼんやりと見えた。

「さぁ。外に出ましょう。今ならはっきり見えるわよ」
お婆さんは、そういうと祥子の手を取って立ち上がった。
「そうじゃな。外で見よう」

三人で海岸に出ると、さっきまでの、どしゃ降りの空が嘘のように
晴れあがり、海岸上に大きな大きな虹がかかっていた。
思えば祥子は、今までほとんど虹を見た記憶がなかった。多分、雨
上がりの日には、どこかで虹がかかっていたのだろうが、空を見上
げることすら忘れていたのかもしれない。

「わしらの所じゃ、虹は天の曲線とか天の架け橋って言われておっ
て、神様がいい知らせを届ける為にかけてくれるものだと言われと
るんじゃ。それに、レインボーはレインとボー。つまり雨の弓。
雨が降った後じゃないと、天の架け橋となる弓は引かれないってこ
とかもしれんな。辛いことを乗り越えた後には、神様は喜びを贈っ
てくれるんじゃから」

祥子が深く頷くと、さっきまであった虹がすーっと青空の中に消
えていった。祥子は言葉に出来ない何かを確信した。
それは、以前、地元の根津神社でお参りしていた時に、いつも感じ
ていたものと同じだった。本当は、忘れていただけだったのかもし
れない。

「私…私、本当は色々なことが重なって、生きていく自信がなくな
って、そしてこの島にやって来たんです」
「あなたの国からじゃ、この島まで遠かったでしょ。どうしてここ
に来ようと思ったの?」
お婆さんが祥子に聞いた。

「それは。実は夫はこの島の名前がついた洋服の仕事をしていて…」
「え?イニシュモアっていうの?」
祥子は頷いた。
「それで、夫は何度か来た事もあって、何年か前、私も連れて来て
もらう予定だったんですが、事情が出来てこれなくなって。それで
死ぬ前に、一度は行ってみたいと思って」
祥子は、さすがにこの島で死のうと思ったとは言えなかった。

「でも、私…。私も自分が生きていることを受け入れていなかった
んじゃなかったのかって。私の家族を。私の運命を。私自身を肯定
していなかったんじゃなかったのかって…今、やっと気がついて」

お婆さんが不意に祥子を抱きしめ、その上からお爺さんが二人を包
み込むように抱きしめた。祥子は、二人の温もりに包まれながら、
自分の家族たちの温もりをしっかりと思い出していた。
静寂の中で、遠いさざ波が静かに耳に響いた。

「私、明日家族のもとに帰ります!」
「そうか。事情はよくわからんが、それが一番じゃ」
「まずは、家の中に入って。おうちに電話かけなさい。きっとあな
たの大切な家族が、ずっと心配しているはずよ」
「はい!ありがとうございます!」
祥子は、力強く返事をすると、自分の全てを肯定するように深呼吸
をした。

砂混じりの風の匂いがした。

                     
                        ー完ー