2019/04/19━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


     ☆★☆ TEN's magazine 代理発行号☆   
  

━━━━━━━━━━━━━━━━━━ http://www.office-ten.net
こんにちは!
オフィスTENスタッフのタナカアキコです。

今回のメルマガは、先週お伝えしていたとおり「熊野本宮大社 例大祭」
へ参列し、東京へ戻ったその数時間後!にスーツケースを持ち替えてホ
ピの大地へと出発しました天川(彩さん)に代わり、私、タナカが代理
発行でお届けいたします。

facebookをご覧になっている方は、彩さんの最新の投稿ですでにお分
かりかと思いますが「ワープの如く?」と書かれているそこには、圧倒
的で神々しい熊野の風景から一転、ダイナミックな青い空にそびえ立つ
サボテンと、アリゾナの風に吹かれ何とも嬉しそうな彩さんの笑顔が♪

側で見ていてもクラクラとめまいを起こしそうな動きっぷりで、体だけ
は本当に大切にしてもらいたいのですが・・・一つ一つのお役目、お仕事を
精一杯に、真摯に向き合う彩さんは本当にキラキラと、そして生き生き
としていて、「生きる」という本当の姿勢を常に私たちに見せてくれて
いる気がします。

今回の熊野へは私も同行させていただいたのですが、そこでもやはり、
人との向き合い方、神様との向き合い方、ご縁(神縁)というものの繋
がりを大切にする姿勢を、あらためて学ばせてもらった濃厚な時間でし
た。もちろん、それだけではなくて、久しぶりに出会えた巨石に嬉しそ
うに手を振るチャーミングな彩さんからは「楽しむ」姿勢も大いに学ば
せてもらっています♪

そんなことを思いながら選んだ、今回の 勝手に“タナカ企画”!では、
近頃、コラムが読めなくてウズウズ?しているあなたのために!
豪華二本立てで、彩さんのこのコラムを選んでみましたよ♪

どちらも「自分」というものに向き合って、もっともっと自分らしく、
大好きな自分で清々しく生きていこうよ!という彩さんのメッセージが
たっぷり詰まったこのコラム。甦りの聖地 熊野から、平和の民 ホピ族
の祈りの大地へと飛んで行き、今ごろも大事なお仕事をモリモリこなし
ているであろう彩さんの帰りを待ちながら、どうぞごゆっくりコラムを
お楽しみください。


彩さんと浅井(キョウちゃん)が戻ってきたら、いよいよGWに突入!
前回呼びかけました『アメリカインディアン雑貨店 お手伝い大募集』
のお知らせは、早々に手を挙げてくださった方々のおかげで、有り難く
締め切りとさせていただきました。

お店のオープンは4月28日(日)11:00から。5月6日(月・祝)までの
7日間(最終日は16:30まで)、GWの期間限定ショップとなりますので
Hopiショップと合わせてこちらもどうぞお楽しみに!!
つつじ祭りも賑やかな根津へ、ぜひ足をお運びくださいませ♪

7月のホピツアーの受付もいよいよ来週にはスタートです!
今年こそは!とお考えの方、満席になる前にどうぞお早めに〜。

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◇◇今日の目次 ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇
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1・コラム・風の文様 アーカイブ1=======「自分を生きる」
           アーカイブ2「ハライタマエ キヨメタマエ」
2・編集後記====================「あとがき」
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【1】◆◇コラム・風の文様◆◇ ☆☆アーカイブ1☆☆
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□『自分を生きる』         2008年10月 メルマガ第341号より


人は、それぞれ自由に生きる権利がある。
しかし、自分自身に縛られ、自由に生きることができなくなっている人
が、どれほど多いことだろう。

人生の選択は、瞬間瞬間に起こっている。そして選択は全て自己責任だ。
決して誰のせいでもない。

あの人が悪い。こんな会社が悪い。あんな病院に行ったから酷い目にあ
った。と声を大にしていう人がいる。

しかし、あの人が悪い、という人と付き合った自己責任であり、こんな
会社に接点を持った自己責任だ。あんな病院に行ってしまったとしたら、
よく調べなかった自己責任なのだろう。しかし、だからといって自分が
悪いとは限らない。要は精一杯やれば、あとは、「そんな運命だったの
でしょう」と淡々と受け止めればいい。

自分の人生の主人公は、自分以外にはない。
他者に、生きかたや考え方を決めてもらおうとするのは、自分を放棄す
るのに等しい。迷った時、相談できる相手がいることは幸せなことだ。
しかし、相談ではなく、委ねてしまおうとするのは、人生の横着者だと
思う。そんな横着をするから、人を、自分の意のままに操ろうとする人
にひっかかってしまい、人生の迷路から抜け出せなくなってしまうのだ。
アレもコレも、やってみる。まるで正しい道かのごとく、新しいことは
目の前に現れる。が、いつまで経ってもグルグルと同じところから抜け
出せない。要は、自分で答えを見つける能力は自分には無い、と自己を
否定し、真の自分の姿を見ていないからだ。


また、二つ心で生きている人がどれほど多いことだろう。

「本当」はアレがしてみたいんだけど「でも」時間がないし…。とか。
「本当」は言いたけど「でも」どう思われるかわからないし…。とか。
「本当」は辞めたいけど「でも」辞めたらどうなるか恐いし…。とか。

なぜ、「本当は」という素直で純粋な声を無視するように、「でも」の
声をかぶせて、素直で純粋なものを否定し、純じゃないものを正当化し
ていくのだろうか。

一見すると「でも」の後にくっつく言葉は、とても理路整然とた正論の
ように思える。その正論のようなものが語り出したら、「本当は」なん
ていう素直で純粋でな思いは、あっけなく潰される。コテンパンにやら
れる。立ち上がれなくなるぐらい、否定される。


「アレがしたい?今、そんな余裕があるの?今は忙しい時なんだし、そ
んなことやっている場合じゃなんじゃない?我慢しなきゃダメだよ。大
人なんだから」

「こう言いたい?余計なことは言わない方がいいよ。例え、相手のこと
を思ってにしても、相手はどう思うかわからないし。ヘタに何か言って、
損をするのは自分自身なんだから。関わらない方がいいよ。大人なんだ
から」

「会社を辞めたい?本気で考えているわけじゃないよね。今、会社辞め
たら、もうどこも働き口がないかもしれないよ。お金はどうするの?好
きな服だって買えなくなるし、会社辞めたら、いろんなもの失うよ。会
社の体質が合わなくたって、我慢しなよ。お給料、貰えているんでしょ。
どこか適当な場所が見つかれば、その時、辞めたらいいんだし。大人な
んだから」

返す言葉が見つからなくなり、「そうだよね」と引き下がるのを待って
いる。
しかし、そこで偉そうに喋っているのは、小さな枠を守ろうとしている
自分なのだ。真の自分を生きようと思ったならば、そんな小さな枠の中
の自分なんか、蹴飛ばした方がいい。小さな枠の中で臆病にオドオドし
ている自分を大切に扱っている限り、純粋で素直で、大らかで自由な自
分は現れてこない。いや、気がついた時には、いなくなっているかもし
れない。

しかし、ワガママ放題、他者に迷惑をかけて生きる、ということと、真
の自分を生きるということは異なる。

選択があったりしたら、清々しい自分を感じる方を選ぶ、ということだ。
「こんな自分は本当は嫌だけど…」と思うのなら、選択しないようにし
よう。こんな自分は本当は嫌、だと思いながら選択していくと、自分が
益々嫌いになっていく。逆に、世間にどう思われようが、人にどう言わ
れようが、「出来ればその方がいい」と思う方を選択したなら、自分の
ことが好きになる。

せっかく、この世に生まれ今まで「自分」という存在と付き合ってきた
のならば、小さな枠のつまらない自分ではなく、大いなる自分を認めた
方が、楽しいはずだ。

自分を生きる、とは、真の自分を裏切らず、素直に大らかに清々しく生
きていくことだと私は思う。

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◆◇コラム・風の文様◆◇ ☆☆アーカイブ2☆☆
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□『ハライタマエ キヨメタマエ』   2009年7月 メルマガ第377号より


私が育った家は、これといって信仰心の篤い家庭ではなかった。
七人兄弟の四番目の父と、九人兄弟の末っ子の母。
当然、家にはご先祖様を祀る仏壇も無く、神棚という風習も無かった。
日常的に手を合わせていたのは、ご飯を食べる時ぐらいだっただろうか。

しかし、神社仏閣は両親揃って好きな方だったので、子どもの頃からよ
く連れて行かれもした。当然、子どもの私にすると退屈な場所ではあっ
たが、どこか清々しさも感じ、目に見えない大いなる存在があるという
ことも、感覚として捉えていたように思う。

TENの仕事をするようになり、神社に参拝する機会が格段に増えた。

「たかまのはらに かむづまります かむろぎ かむろみのみこともち
て…」と始まる天津祝詞(あまつのりと)という祝詞も幾度耳にしたこ
とだろう。この祝詞は人は知らず知らずのうちに「罪穢(ツミケガレ)」
を持ち合わせてしまうのだから、その罪や穢れを祓い清めてください、
と神々にお願いをする言霊だ。

実は先日、この「罪穢れ」について、今までとは違う解釈があることを
知った。

春日大社の葉室頼昭宮司様の著書の中に書かれている言葉なのだが、

「罪」というのは、神様からいただいた、それぞれ持つ素晴らしい人間
本来の姿を「包み」隠してしまうことであり、「穢れ」とは、神様から
いただいた尊い「気を枯らしてしまう」ことである。
と記されていた。

なんと心優しい解釈なのだろうか。私は、この解釈を読みグッと気持ち
が軽くなった。
確かに知らず知らずのうちに、罪も穢れも積み重ねていることだろうが
「神様から授かった本来の姿を包み隠したり、神様から授かった尊い気
を枯らしちゃもったいないよ」と言われると素直にそうだよなぁという
気持ちになる。

「我欲」で生きていると本来の姿が包み隠され、気が枯れてくるらしい。

だから、神様に我欲で慢心に溺れかけた自分の心を祓い清めていただき、
包み隠してしまった本来の自分を取戻し、枯れかけた気に活力を取戻す
ことが、お祓いの本来の意味なのかもしれない。

ちなみに「お祓い」という言葉を検索すると、「悪いことが重なったの
でお祓いをするべきか」といった内容のものが多々出てきた。
そうか、アンラッキーな時にお祓いを受ける、というのがお祓いに対す
る通常の感覚なのか…とも思ったが、目に見えない世界だからこそ、邪
悪なこものにシフトして物事を考えるより、神様は自分にどんなメッセ
ージを送っているのだろうかと考えた方が、幸せに繋がっていくのでは
ないかと私は思う。

今度、神社でお祓いを受ける時には、ほんの少し違った気持ちになりそ
うだ。


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【2】◆◇編集後記◆◇
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今回の熊野では、今までバスでしか通ったことのなかった湯の峰温泉へ、
神様の計らいで奇跡的に連れて行ってもらえました。
実はこの冬、湯たんぽで足に低温火傷を負ってしまった私...。
かなりの高温だと聞いて、絶対に傷が痛むと恐る恐る入った「つぼ湯」
でしたが、驚きのお湯の優しさに涙が出そうになりました。
太古の昔から、こうして人は大自然の叡智と恵みによって救われ、
癒されてきたのだと、蘇りの聖地 熊野であらためて実感した出来事
でした。
                         アキ