2021/10/29━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

☆★☆ TEN's magazine 第993号 ☆★☆

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こんにちは!天川 彩です。

あっという間に10月ももう終わってしまいますね。
明後日は選挙ですね。緊急事態宣言があけて、少しずつ
明るい兆しが見えてきたような気がします。世の中が益
々元気になっていくように、大切な一票を投じたいと思
います。

さて。先週のメルマガで夫の還暦祝いで家族旅行に行く
と書きましたが、思えば家族揃っての旅行は十年ぶりぐ
らいです。子どもたちもすっかり成人し、それぞれの世
界があるので、なかなか全員でタイミングを合わせるこ
とも難しいのですが…。今なら行けるね!というベスト
タイミングを見つけて、本当に良かったです。

お天気にも恵まれ、富士山や八ヶ岳、そして日本アルプ
スと美しい山々の風景にも癒されました。

メルマガ読者の皆様は私の本名が「雨宮(あめみや)」
であることはご存知かと思いますが、夫の還暦にあわせ
て「雨宮家のルーツを辿る旅」ということで行ってきま
した。
ブログでは、写真付きで紹介していますが、色々調べて
みると面白くって。やはり家に歴史ありだなぁと実感で
す。

「雨宮家のルーツを辿る旅」

結婚してまもなくの頃、夫に雨宮の家紋を質問したこと
があります。その時「丸に上の文字が入ったもの」との
こで、確か武田信玄の家臣というような話を聞いたこと
がある、とのことでした。その時はただ珍しい家紋だな
ぁと漠然と思っていました。

そして2年前。Hopiカチーナ展を岡山と広島で主催
してくださった方々が移動日に「しまなみ海道」へ連
れて行ってくださったのです。その際、愛媛県今治市
にある「村上海賊記念館」に立ち寄りそこで夫が話し
ていた我が家と同じ家紋の旗が、沢山はためいているの
を見て驚きました。

ここが本拠地??ということは夫は海賊の子孫?
そんなことが頭によぎりましたが、それより、その旗
を見た瞬間、今治タオルの文様を思い出しました。

長方形の比率や、三本ラインとマル。何よりどちらも
今治。
関連性がないはずはないとは思います。それはひとま
ず置いておき、とにかく我が家は、村上水軍と同じ家
紋だったということがわかりました。

村上水軍といえば、源平合戦で活躍した海の戦士。

それにしても何故?村上さんならわかるけれど、雨宮
さんだし…。どんな繋がりがあるのだろう。そう思って
少し調べてみました。

でも、私が雨宮家のルーツに興味を持ったのは20年近く
前。義父が亡くなり戸籍を取り寄せた折、山梨県の勝山
のそばにある「塩山神金村」という地名を見た時からで
す。

三宅島出身と聞いていたので、てっきりご先祖様も三
宅島の人かと思っていたのですが、義父の父である祖
父は山梨の人だったのです。それで納得。山梨には雨
宮姓の人が日本一多いのです。多分、祖父は三宅島出
身の祖母と何処かで出会い恋におちて山梨から三宅島
に行ったのかな?それはわかりませんが、そもそもな
ぜ雨宮姓が山梨にそんなに多いのか、なにより我が家
と村上水軍との関係は?

調べてみると、雨宮家は、信濃村上氏の流れを汲む家
だということがわかりました。

ことの始まりは平安後期。白河上皇に仕えていた源盛
清が、寛治8年(嘉保元年・1094)呪詛事件の疑いで白
河上皇の怒りを買い、信濃国更級郡村上郷に流罪され
たことからです。

その後、盛清の子、源為国がこの土地の名前をつけて
改名。村上を称し「信濃村上氏」が誕生します。

平安末期、為国の弟、村上定国が保元の乱の折、信濃
より淡路島を経由して、瀬戸内海に浮かぶ島々に向か
い、平治の乱以後、伊予に村上氏を興したとされてお
り、村上水軍はそうした経緯で誕生しました。

南北朝時代になると、村上氏は、信濃では北朝方、瀬
戸内海では南朝方として活動していたようです。
(何とも複雑ですね)

さてさて、雨宮家の始まりは、というと…信濃村上氏
の本拠地のすぐ近く。現長野県信濃国埴科郡雨宮。

この雨宮という名前の元となったのが「天ノ宮」とい
う神社の存在です。後に「雨宮坐日吉神社」となり、
そこから雨宮という地名が誕生。姓もそこから授かっ
たとあります。

雨宮坐日吉神社(あめのみやにますひよしじんしゃ)。

詳しい創祀年代は不詳なのだそうですが、
社伝によると、古墳時代、舒明天皇の代の頃。大雨暴
風が三日三晩続いて千曲川があふれ洪水となっていた
際、人々が山に逃れていた時。光放ちながら激流を渡
り何かがやって来て…。すると風雨はたちまちに止み
嵐は静まったのだそう。人々は不思議に思い光のもと
を探してみると、そこには大小二個の石があったのだ
とか。

その夜、少女が神懸りになり「吾は大己貴命と少彦名
命である。その石を祀るべし」との告げがあったこと
から、そこの場所に社殿を建造したのが、この神社の
始まりとあります。

更に、白鳳時代、地震で山が崩落していた折、巫女が
神懸りになり「山の神を祀って鎮めるべし」とのお告
げにより、近江より大山祇命が合祀されて、神社の社
名に日吉社が加わり「雨宮の地に坐する日吉社」から、
この神社名になったようです。

そんな訳でまずは家族で神社へお参りしました。境内
には「雨宮の御神事」という碑もありました。これは
3年に一度行われるご神事だそうで、国の重要無形民俗
文化財に指定されているのだそう。

なにせ、この辺りの地名は「雨宮」なので、今随所に
雨宮の名前がついていて、雨宮会館、雨宮郵便局、な
どなど…。
家族も雨宮オンパレードに大興奮。

そして戦国時代になると、この土地の名前がついた雨
宮氏が歴史に少しばかり登場するようになります。

中でも歴史に名を残したのが、信濃村上軍の将、雨宮
正利(マサトシ)という人物です。
夫は雨宮正欣(マサヨシ)。
なんとも縁を強く感じます。

さて、この正利さん。もともとは信濃・鞍骨城主であ
る清野信秀の子として生まれ、雨宮昌秀(雨宮摂津守)
の養子に入り、信濃・唐崎城の城主となります。

この時、信濃村上氏の当主は猛将、村上義清。

戦国最強軍と呼ばれ恐れられていた、武田信玄率いる
武田軍が北信濃侵攻を進めてきた時、上田原で迎え撃
ったのが義清率いる村上軍でした。

1548年上田原の戦いで、雨宮刑部は村上左馬頭義清方
として出陣。村上軍は武田軍に勝利しますが、雨宮刑
部はこの戦いで残念ながら討死してしまいます。

そんな訳で、上田原古戦場跡にある雨宮刑部のお墓参
りも家族でしてきました。

上田原の戦いでは勝利した村上軍でしたが、その後の
戦いで村上軍は、武田軍に負け、大将・村上義清は、
上杉謙信の元へ助けを求めに。結局、これで信濃村上は
終焉を迎え結果的に、村上義清は、上杉謙信の家臣の一
人となります。


それが端を発して、かの有名な「川中島の合戦」へと発
展するのですが、武田信玄と上杉謙信が一騎打ちとなっ
た最大の決戦、1561年の第四回川中島の合戦で、上杉軍
の重要な拠点となったのが『雨宮の渡』です。ここを陣
取っていたのが、既に上杉謙信の家臣となっていた村上
義清でした。

そう、雨宮さんではないのです。

実は、川中島の合戦よりも前。先に記した通り、1548年
に上田原の戦いで、村上軍の将として武田軍と戦い討死
した雨宮刑部(正利)亡きあと、家督を継いだ弟の雨宮
景信。

兄、雨宮刑部(正利)は村上義清に忠義を尽くし亡くな
ったのに、その後の村上義清が上杉謙信に救済を求め逃
げるように越後に向かい、そのまま謙信の家臣となった
ことに納得がいかなかった雨宮景信は、1553年には村上
軍から離れ、甲斐の武田信玄のもとへと出仕しているの
です。

ここから舞台は長野から山梨へ。

雨宮刑部正利の弟で家督を継ぎ、信濃から武田信玄の元
にやって来た雨宮景信。公益財団法人・長野観光コンベ
ンションビューローの「川中島の戦い史跡ガイド」によ
ると、雨宮景信は、武田晴信(信玄)のもとで足柄70騎
の将となったとあります。

しかし、甲州ではこの景信の名前は調べても、一切登場
しないのです。登場するのは、雨宮景尚という似た名前
の人物名。景信と景尚…私は同一人物なのではないかと
推測するのです。

雨宮景尚は、もともと雨宮織部正良晴という名前だった
そうですが、武田信玄の従姉であり勝沼信友の娘、松の
葉と結婚します。しかし後に離縁。松の葉は、剃髪して
理慶尼と号します。

信玄の家臣となり、景信が信濃から甲州に入ったのは、
1553年。
信玄の姪と結婚していた景尚が離縁した年は1560年。

更に雨宮景尚(雨宮織部正良晴)の名前が甲州の歴史
上登場するのは、この婚姻のところから突然なのです。

他に雨宮家國、雨宮家次(十兵衛)も武田陣の家臣と
して名前を見ることができます。しかし資料が少なす
ぎてその関係性はわかりません。

先に書いた通り、雨宮姓が現在も圧倒的に多いのは山
梨県です。戦国時代、一族こぞってやって来たようで
すが、個人的にはこの戦国時代という時代、戦いや策
略が多すぎて、あまり好きになれません。

でも、山梨名物の信玄餅は大好きです。

そして信玄餅以上に好きなのが山梨のフルーツ。特に
今は葡萄の最盛期ですが…。山梨といえば甲州ぶどう。
勝沼を中心に日本一のぶどうの産地として知られてい
ます。

今回の旅の目的地の一つは、祖父の戸籍にあった、塩山
旧金上村。この場所は勝沼インターからすぐで、周囲は
ぶどう畑があたり一面に広がっていました。

実は、甲州ぶどうには2つの伝説があります。

一つは奈良時代の高僧・行基説。行基がこの地で修行中、
夢の中で右手に葡萄を持った薬師如来が現れ、その姿を
安置したところ葡萄の木を発見。薬草として育てたこと
を村人に伝えたという話。この薬師如来の手から甲州と
いう名前がついたという話もあります。

そしてもう一つの説が、平安時代末期に甲斐国勝沼の住
人、雨宮勘解由(あめみやかげゆ)が山中で珍しい果樹
を見出し育て、数年後に実らせたことが、この地での葡
萄栽培の始まりとした話です。

そうです!雨宮という人物がこの地でぶどう栽培を始め
たという話があるのです。

雨宮勘解由は、5年に渡る研究の末、栽培に成功。この
葡萄を、頼朝に献上。さらにその子孫である、雨宮織部
正良晴は領主、武田信玄へぶどうを献上。葡萄が非常に
美味しかったことから、信玄から太刀を賜ったという話
も…。

ただ、平安時代の雨宮勘解由という人物伝は明治時代に
なって伝わり始めたそうで、真相はわかりませんが…。
その時に、葡萄栽培に付加価値をつけるため、こんな物
語をつくったとしか私には思えません。

でも、甲州で竹棚によるぶどう栽培が数百年と続いてい
たことや、明治12年、神岩崎の雨宮作座右衛門という人
物が、それまでのたけを細い鉄棒に替えて、ぶどう栽培
を格段に発展させたということは、歴史上間違いのない
ことです。

やはり、雨宮は勝沼ぶどう郷に深く関わっているのです。

夫から、雨宮の歴史を辿る還暦旅行のお礼にと、ぶどう
のプレゼントがありました。
思いがけないプレゼントに、皆大喜びです。

1泊2日の駆け足でしたが、夫の還暦という節目に、我が
家のルーツを辿る旅を家族揃って出来たことは、本当に
良い思い出となりました。


長いお話、お読みくださいましてありがとうございます。

さてさて。
シンガーの竹中あこさんと私がナビゲートする来週末、
11月6日(土)開催の「トーキングフェザー」。
お陰様で、残席もわずかとなってきました。午前の部は
既に満席となっておりますが、午後の部は若干まだ受付
可能です。

気になる方は締め切りになる前にお申し込みくださいね。
会場はHopiショップギャラリーです。
【トーキングフェザー・HP】
http://www.office-ten.net/talking11.html

そして、来月後半は、およそ一年ぶりとなる「糸魚川・
ヒスイ展」をまたまた開催いたします。
会場は、こちらもHopiショップギャラリーです。

年内は、Hopiに行けないので、せめて聖なる空間で
ご縁ある催しを行っていきたいと思っています。

ハミングバードは、最近イートインやテイクアウトと
同時に、お土産として使ってくださる方が急増。
皆さん、外に出る機会が増えているのだなぁと実感しま
す。
また、新発売の「珈琲&カカオニブケーキ」は、賞味期
限の問題がありますので、2週間に一度。一本焼き5本
セットケーキ5箱のみの販売となります。次回は11月3日
入荷予定です。

この焼き菓子は、そのままはもちろん、少し珈琲をかけ
て召し上がっていただくと味変をお楽しみいただけます。
更にオーブントースターで焼くと表面はサクサク。中は
シットリ。超美味しいです。

こちらもオンラインショップからもご購入いただけます
是非♪

https://hummingbirdshop.square.site/s/order/

それから、セレクトショップはイタリアからウールのコ
ートが入ってきました!
信じられないぐらい軽くてお洒落なコートです。
また、間もなくペルーからアルパカの超可愛いセーター
なども入ってまいります。

こちらのオンラインショップもいつか出来たら良いなと
思っているのですが…こちらはセレクトショップという
性質上、一点ものが多く更にお手軽な価格なので、店頭
で次々と出てしまうのです。

でも、メルマガ読者の皆様の為にも、いつか購入してい
ただける方法考えますね。

緊急事態宣言も解除されましたし、遠方の皆様も東京へ
いらした際には、是非、TENが運営するお店へ是非お
立ち寄りください。

それでは皆様、素晴らしき週末をお過ごしくださいね~。

aya