━2021/08/20━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

☆★☆ TEN's magazine 983号 ☆★☆

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こんにちは!天川 彩です。

先週からの大雨で、各地大変な状況になっておりますね。
皆様お住まいの地域は大丈夫でしたか?
そして、もう書くことすら嫌になりますが、コロナの状
況が予断を許さない状況になってきていますね。

度重なる天変地異。もう何か目に見えない世界から強烈
にメッセージが送られている気がしてなりません。

どうぞ、皆さまくれぐれも気を付けてお過ごしください
ね。そして、もしかすると読者の方の中に、既に感染さ
れた方もいらっしゃるかも…ですよね。
なにせ、昨年からの累計で125万人以上がかかってい
て、今日1日でも2万五千人以上の方が新たに感染して
いるのですものね。

もしも、感染されてしまった方は、どうぞ一日も早く回
復されますようにお祈り申し上げます。


そんな状況の中…迷いに迷った末、先週末3日間ほど天
河に行っておりました。
このペンネームを授かった翌年から20年余り。天河太々
神楽講の一つとして、欠かさず七夕祭の折にはご奉仕と
祈りの時を多くの皆様と共有してきましたが…。

東京は緊急事態宣言下。連日爆発的な勢いでコロナが広
がっている東京から、いくらワクチン接種2回終了して
いるとはいえ、宮司様はじめご高齢の方が多い天川村に
行ってもいいものだろうか。

今年の旧暦七夕はちょうどお盆と重なり、新幹線なども
人でいっぱいだろうし、土砂被害が出るかも…といわれ
ている大雨情報も。

さすがに、今年はやめたほうがよいかな〜と迷っていた
ら、夫が「本当に行けない理由があるわけではないし、
20年以上も続けていることなのだから、後悔しないよ
うに、行ってきたら?」と背中を押してくれたので、
腹が決まり行くことに。

スーツケースには、白作務衣や着替えの他、長靴、スニ
ーカー、草履と全ての天候にあわせた足元セット。さら
に雨合羽、アルコール消毒など目一杯用意しての出発で
した。

やはり今年は例年とは異なり、何もかもが通常とは異な
る異例の旧暦七夕祭でした。でも宮司様はじめ神社の皆
様がことのほか喜んでくださって、本当に良かったです。
また持っていた長靴や雨合羽なども大活躍して、忘れら
れない七夕祭となりました。

そして、今年はさらに七夕祭のあとの時間も思いがけず
濃い時間となりました。

神社の周辺のお宿はかなり少なくなっているのですが、
昨年からお世話になっているのがSさんのところ。
古くからの友人なのですが、ゲストハウスを始めてから
は、頻繁にお世話になっています。Sさんは歴史や民俗
学的な話が大好きで、会うたびに盛り上がるのですが、
先日もお世話になった際に、

「Ayaさん、この近辺に縄文遺跡が出土していることご
存知ですか?」と言いながら一枚のプリントを見せてく
れたのです。

そこにはストーンサークルの様な写真が写っていました。

奈良に縄文遺跡?私は驚きました。

何せ、関西は歴史の宝庫で中でも奈良。特に古墳時代か
ら飛鳥、そして奈良時代まで、都が京都に移るまで日本
の中心だった場所。

古代に想いを馳せるには、これ以上の場所はないほどで
す。

でも、古事記や日本書紀にもあるように、神武天皇が東
征し橿原で即位される以前から住む人々のことが記され
ており、弥生時代前から人が暮らしていたのは当然のこ
とで…。

大和政権が誕生したことで、縄文時代から暮らし続けて
きた地元の人々の足跡は故意に消されてきたのか、それ
とも弥生、古墳、飛鳥…と歴史が積み重なる中で

自然とそれ以前のことはわからないものとなっていたの
か。それは定かではありませんが、
とにかく縄文遺跡が極端に少ないのは事実です。

天河神社での旧暦七夕祭ご奉仕を終えた後、Sさんが縄
文遺跡をはじめとした幾つかの遺跡に案内してくださる
というので、ありがたく連れて行って頂くことにしまし
た。

最初に行ったのは、宮の平遺跡で出土したものが展示さ
れていた、川上村の『森と水の源流館』。

宮の平遺跡というのは、丹生川上神社上社がダムで移転
を迫られた際、地質調査をしていて現れた、縄文後期の
遺跡です。

30センチほどの直立したままの石棒が当時のままの姿
で発掘されたもので、ほかにもやや傾いたままの石棒が
2基、磨石、石皿、などの他に、ストーンサークルも検
出されたようです。
その後、宮滝遺跡に連れて行ってもらいました。

ここは個人的に全ての天皇の中で最も好きな「天武天皇」
ゆかりの地。天武天皇の母親である斉明天皇が開いた吉
野宮だとされているところです。

これまで、幾度となく天武・持統天皇の御陵に行っては
手を合わせ、この遺跡にも数回来たことはありましたが
なぜ宮滝遺跡というのか、その名前の由来までは知りま
せんでした。
Sさんが「ここから川の様子を見てみてください」と言
って案内された場所から川をのぞくと…」

見るだけでドキドキするほどの聖なる雰囲気でした。

なるほど。だから宮滝遺跡と名付けられたのですね。
宮滝遺跡は今は何も無い場所ですが、来るたびにいつも
天武天皇がここで過ごされていた時代に思いを馳せるこ
とができます。
そして私のリクエストで、葛城の『高天彦神社』とそこ
に祀られた『土蜘蛛塚』。そして『一言主神社』に祀ら
れた同じく『土蜘蛛塚』に連れて行ってもらいました。

少々生々しい話になりますが、
大和朝廷に敗れた縄文時代から暮らしていたそれぞれの
土着の豪族の長たちの多くは、征伐という表現で殺戮さ
れ、首や胴体を他に埋められてきた歴史があります。
そうした王権に迎合しなかった、土着の豪族に対する蔑
称として「土蜘蛛」という表現が用いられてきました。

実は来週、パラリンピック能楽祭というものに行くので
すが、そこでの演目が〚土蜘蛛〛。
そんなこともあり、縄文遺跡に行き急に「土蜘蛛〛と呼
ばれ埋葬された人々のことが気になったのです。

『高天彦神社』は、古代豪族・葛城族の祖神ともされる
高皇産霊神(たかみむすびのみこと)を祀っており、御
神体は背後にそびえる白雲峯です。

ここは、日本神話に登場する高天原(たかまがはら)と
考えられている、という説もあるようで、実際のところ
はわかりません。
参道から見えるお社も幻想的で素敵です。

ここでの目的地は、このすぐそばにあるとされていた
『土蜘蛛窟』でしたが、
Googleマップを頼りに歩いてみましたが、先は柵がし
てあり、行くことが出来ませんでした。
ただ、こんもりとした森の先が土蜘蛛窟と呼ばれる、
先住の民が暮らしていたとされる場。

改めてお社にお参りした後、ふと奥をみると何やら気
になるものが。直感的に、これは土蜘蛛にまつわるも
のではないかと思い、その横に立てられた札をよくみ
てみると、

やはり…

辛うじて、「土蜘蛛塚」の文字が読めました。

この神社のすぐ近くの『葛城一言主神社』にも「土蜘
蛛塚」があることは知っていたので、Sさんに無理を
言って更に連れて行って頂くことに。

『葛城一言主神社』には、一言主大神という葛城の土
地神が祀られています。
その傍にありました。
土蜘蛛塚。
ここは謡曲にもなっている『土蜘蛛』のゆかりの地。

土蜘蛛のことを、東京に戻った後、更に色々調べてみ
ました。

吉野に国栖(くず)という地があります。

土蜘蛛を調べると、すぐに国栖と出てきますが、これ
は、神武天皇の東征の折、光る井戸から出てきた尾の
ある人が国栖人であったとされているからです。そん
な人間はいるわけもなく、蔑んだ表現であることは明
らかです。

しかし、壬申の乱の折、吉野に逃れた大海人皇子が吉
野に逃れた際、窮地を救い、将来に導いたのが国栖の
人々であったことが『吉野旧時記』『国栖由来記』に
記されているそうで…。

逃れている大海人皇子を国栖の人々は、国栖の舞で慰
めたのだそう。
大海人皇子から即位して天武天皇となった後、国栖の
舞は天皇より『翁の舞』と名付けられ、桐竹鳳凰の装
束と楽器が与えられ、宮中で舞うという栄誉が与えら
れるのです。

東征の折には追いやられ、侮蔑された先住の民が、天
武天皇の時代には、このような関係になったことを知
り…。

ただただ嬉しく…。

今、この時代に改めてアイヌ文化が注目を集めたり、
天皇陛下の御心を多くの人が知ることになったり、

表面上は、大変な時代でもありますが、深層では良い
時代になっていることを私は肌で感じています。

吉野や熊野、葛城などがやはり日本の最古層だなぁ
と改めて感じた時間でした。



ではでは、みなさま素敵な週末をお過ごしください。

     
                  Aya