■『損得勘定』 | |
先日、バスに乗っていた時のこと。
後ろの席から、おばさんの話が漏れ聞こえてきた。
「私は、人を絶対に信用しないことにしているの。信用した分だけ損す
るもの。今まで、どれだけの人に裏切られがっかりした人生を歩んでい
ることか。あなたも、人なんか信用しちゃだめよ」
どんな話から、そんな展開になったのか知る由もないが、きっとそのお
ばさんに、同行の女性は何かを相談したのだろう。
「そうかしらねぇ…」
気弱そうな返答の中に、この話はもう嫌だというニュアンスが含まれて
いるように感じた。しかし、そのおばさんの話は延々と続いた。
「これは、私の人生経験からだから確かだけれど、自分の味方だと思っ
て接していても、必ずいつかは敵になるのよ。それに、これも人の習性
だと思うけれど、恩を仇でかえすって本当よ。恩を恩で返されたことな
んか一度もないわ。私が返されたのは全て仇よ。だから、私は人に何か
を貸すことも借りることも絶対にしないの。人生、損するの嫌だもの」
ここまで聞いたところで、私はバスを降りた。
同行の女性は、あの話を聞いていてどう思ったのだろう。
きっと「もう、これ以上付き合うのはやめよう」と思ったかもしれない。
そして、またしてもあのおばさんは「信用して話したのに、また裏切ら
れたわ。やっぱり、人は信用できない!」と怒るのだろうか。
それにしても、人はどのような悲しい経験を重ねてきたら、あのような
考えになってしまうのか、少し考えさせられてしまった。
幼少の頃から、人に愛された経験が極端に少ないのかもしれないし、素
敵な友人たちとも出会えなかったのかもしれない。
「情けは人のためならず」という諺がある。
情けは人の為にならないと誤解をしている人も多いようだが、実は「人
に情けをかけると、実はめぐり巡って自分にちゃんとかえってくる」と
いう意味だ。
しかし見返りをあてにして恩や情けをかけていると、前記の女性のよう
に「恩を仇で返された」と感じてしまうのかもしれない。
恩とは、与える側ではなく受け取った側が感じることで、もし人に恩を
与えたと思ったなら、その瞬間から見返りを要求しているようなものだ。
私は損得勘定が下手な人間だと思う。
いわゆる「おひとよし」ではないとは思うが、こうしたら得だとか、こ
うなったら損だとか、ほとんど考えたことがない。
だから、人と接する中で辛いことがあっても、今生それを学ぶべきこと
だったのだと思うし、素晴らしい人と出会えた時は、感謝の気持ちでい
っぱいになるだけだ。
損得勘定をしていたら、どこまでいっても計算が終わりそうにない。
所詮、目の前にある「損」や「得」を判断したところで、人生終えると
きに「あ〜、いい人生だった」と思えたなら、こんなに幸せなことはな
いのではないだろか。
今、貧乏人の私が言うのは、少々説得力に欠けるが…金銭的な損や得も、
同じこと。
今、目の前で利益があっても損益があっても、巡りめぐって、どこかで
必ず帳尻があうように出来ていると思う。
人を信じ、人生を信じていれば、生きていることは素晴らしく楽しいし
お金も天下のまわりもの、と思っているほうがいい。
それにしても、バスの中の女性は、あの考えのまま人生を終えるのだろ
うか。人ごとながら、気の毒に思えて仕方がなかった。
「損」「得」を「尊」「徳」に変えたら、もっともっと人生楽しくなる
と思うんだけどなぁ。