鬼と神と人と』

年の瀬が迫ってくると、否応でも翌年の話をするようになる。
「来年の話をしたら、鬼が笑う」とよく言うが、そもそも鬼とは、一体
何なのだろう。

通常、鬼とは邪悪なものとされているが、本当にそうなのだろうか。
一説には、渡来から来た人々が、形相が異なる先住の人々を、山に追い
詰め鬼と呼んだ風習が残ったとも聞く。
最近、日本全国を歩くことが多くなり、各地で、鬼と神とは同一の存在
として、丁重に迎えられているのを目の当たりにすると、鬼という存在
が、もともと何なのかわからなくなってくる。 

先日行った秋田県男鹿半島には、全国的に有名な「なまはげ」という習慣がある。
これは、旧正月(現在は、ほとんどの地域で大晦日になった)鬼が各戸
を訪問し、怠け者の子どもや嫁を戒めると共に、新年のその家の無病息
災と五穀豊穣を祈る神の使いとされ、邪気払いもしてくれると言い伝えられている。

説はいくつかあるそうだが、山外れに住んでいた邪悪な鬼たちが、心を
入れ替えて神の使いとなったという説が一般的に伝わっているそうだ。
現在も約80の集落で、それぞれに「なまはげ」の習慣は続いている。

また、愛知県奥三河の「花祭り」でも榊鬼が神の使いとして魔よけにや
って来るのだが、人々はその登場を今か今かと心待ちにし、拍手喝采で迎えるのだ。
私が参加させていただいた北設楽の「花祭り」では、スサノオ、猿田彦、
大国主命といった国津神の神々が、それぞれ鬼として登場した。

奈良の天河神社では、節分前夜に「鬼の宿」と呼ばれるご神事があり、
鬼神のために真綿の布団とおむすび、手足を洗う桶を用意する。
翌朝、置かれた桶の砂の有無を慎重に確かめて、入っていれば鬼神がや
って来られた証拠として、その年も宮司としての務めが認められるのだ。
ここ何年も、このご神事に参加させて頂いているが、今年、初めて私は
桶の砂出しにたち合わせて頂くことができた。
慎重に慎重にサラシに水を出してゆく作業を見守っている時は息が止ま
りそうだったが、幾粒もの砂がサラシ上に残ったのを見た時には、感動
と同時に、目には見えない世界と、目で見せてもらえる世界との境界線
にいるような感覚になった。

結局のところ、鬼とは意識の境界線にある存在なのではないだろうか。

鬼子母神の伝説では、500人の子どもを持つ鬼子母神は、我が子を育
てる為に、人間の子どもをさらって食べていたそうだ。困った人々から
相談を受けたお釈迦様は、鬼子母神の子どもを見えないところに隠した
という。我が子がいなくなった鬼子母神は嘆き悲しんでお釈迦様に相談
しに行くと、人間の母親も同じ気持ちなのだと叱られた。
鬼子母神は大いに反省し、以後、安産や子育の守り神となったそうだ。

時として魔を除ける存在であり、時として魔そのものと化す「鬼」。

それはもしかすると、己と神仏との間に存在する心の持ち様そのものな
のかもしれない。

そろそろ年が変わる。
来年に向けて、皆で大いに明るい話題を話をしようではないか。
きっと、鬼神が笑って世の中に渦巻く魔を除けてくれているに違いないから。