人間の宿業(前編)』

私の親友であるサッチャンは、日本で普通に教育を受けてきた在日韓国
人。そして彼女の夫は、日本の朝鮮学校で民族教育を受けてきた在日北
朝鮮人である。厳密にいうと彼も彼女と結婚して、現在の国籍は二人揃
って韓国籍だ。

サッチャン家族との付き合いは、現在中2の娘が幼稚園に入園した時に、
保護者同士として出会ってからだから、かれこれ10年以上になる。

彼女とは最初から妙に気が合った。そしていつしか保護者同士の関係か
ら友人となり、時が経つうちにかけがえのない親友となった。
関西を離れた今、私にとっては、サッチャンの家がもうひとつの実家の
ような存在になっている。

彼女や彼女の家族との付き合いの中で、私は様々なことを学んできた。
普段は、互いにたわいもない話をしているのだが、時に日韓問題や祖国
分離における離散家族問題、そして差別問題などに話が及ぶ。
その度、自分がいかに無知であるかを思い知る。きっと彼女との出会い
がなかったら、今でも、知らないことばかりだろう。


今回の拉致事件がニュースで流れ始めた頃、私は2年前の冬のことを思
い出していた。

20世紀が終わろうとしていた2000年。その年は、夏の終わりごろ
から何か忘れものをしているような気がして落ち着かなかった。それが
何なのか…気がついたのは11月に入ってからだった。
「21世紀を迎える前に、日本人として日本が一番痛みを覚えた場所で
祈り、また日本が最大の罪を犯した場所に行き謝らなければ…」
何故、そんな大それた思いになったのか、今でもわからない。

2000年12月「ヒロシマ2001」という催しに出演する為、私は
広島にいた。
そして、アイヌのシャーマンであるアシリ・レラさんにその話をすると
「一緒に広島でカムイノミ(アイヌ祈祷)をしたい」という。私は思い
切って自腹でレラさんを広島まで招待した。
12月11日夕刻。
サッチャン家族も広島にやって来て、私たちは広島平和記念公園方向に
向かう。

「あれ、慰霊碑が平和記念公園の中に移っとるわ」そう最初に言ったの
は、サッチャンの夫だった。

『韓国人原爆慰霊碑』
それは、平和記念公園の一角にひっそりとあった。

様々な資料を調べてみると、戦時下、日本は軍備強化の為に明治維新後、
植民地となっていた朝鮮半島から、200万とも300万ともいえる人
々を連行し、強制労働をさせていたらしい。原爆投下時、広島に住んで
いた韓国朝鮮の人々は約10万人。そのうちの約半数は被爆し、およそ
2万人が亡くなったという。更には、戦後長い間、日本人被爆者と同等
の援護を受けることすら出来なかったそうだ。

慰霊碑は1970年、日本大韓民国民団・広島県本部により建てられた
そうだが、なんと驚くことに平和記念公園の中には建てることが出来ず、
公園外の川の側に建てられていたという。
1999年になって、多くの人の運動により平和記念公園の中にこの碑
は入れてもらえたそうだ。

「ひどい…」
私は声を詰まらせた。
「あのね、日本という国はそんな国だから」とサッチャンにしては珍し
く吐き捨てるように言った。

「現実をよく見ておくんだよ」とレラさんも続く。
レラさんの亡夫は、アイヌの村に捨てられていた韓国人孤児だったそう
だ。アイヌの村では昔から捨て子は神様が使わした子として、自分の子
供と同様に育てるのだという。

移築して間もない慰霊碑の前で祈った時、私は涙が止まらなかった。

人間とはなんと悲しい生き物なのだろう…。

「どうしても、日本人として21世紀を迎える前に、あなたの祖国、韓
国に地に行って謝りたい」
私は必死でサッチャンに訴えた。

それから10日後の2000年12月21日、サッチャンと私は韓国へ
飛んだ。

21世紀は、もうすぐそこまで迫っていた。