祈りの地』

聖地と呼ばれる場所が世界各地には多々ある。

何をもって聖地と呼ぶのか、それは人それぞれの価値感によって異なる
ものかもしれない。しかし、元来聖地とは字が表す通り、聖なる地であ
り興味本位や遊び半分で訪ねる場ではないと思う。
近年、パワースポットとしてエネルギーを感じたいとか、ヒーリングス
ポットとして癒されたいとか、更にはサイキック的な現象を望んで、そ
れらの地を訪ねる人も多々いるようだ。しかし、そんなに安易なものな
のだろうか。

私は、聖地とは太古から脈々と続く祈りの場ではないかと思っている。

先週、1年半ぶりに沖縄の久高島へ行ってきた。
久高は神の島と呼ばれ、神々に仕えている人たちが住む島だと聞いてい
た。
1年半前訪れた時には、半日過ごしただけだったので、きちんと島の人
と触れ合うこともなく、想像を膨らますに過ぎなかった。

そんな島で、縁あって友人の大重監督が記録映画「久高オデッセイ」を
撮りはじめているというので、それを追うエッセイを書こうと決めてい
た。
7月中旬、監督が事務所に遊びに来られた際、久高島の神人(カミンチ
ュ)の話を聞いてみたいと相談すると、すぐさま島に住むユタカさんと
いう男性に連絡をとってをくれて、シマリバという神の名をもつ神人を
紹介してくれることになった。トントン拍子に全てが進み、それから2
週間後、久高に行くことになった。

シマリバに会った瞬間、びっくりした。
アリゾナに住むホピ族のメディスンウーマン、ロアーナにそっくりだっ
たのだ。
シマリバは、当初警戒しながら話していたが、そのうちに心が解れてき
たのか、様々な話を教えてくれた。

久高は琉球よりも、もっともっと大昔から祈りの地であったこと。
祈りは政治に利用されやすいこと。しかし、真の祈りは時を越えてまた
再び必ず蘇ってくること。海に囲まれているこの島では、女が祈り海で
生きる男たちを守っていること。そのために、毎朝まずは自分と家族の
健康を祈って、天と大地と海の神様に感謝の気持ちで聖茶を捧げること。
など。

祈りの基本は、まず自分であるという。自らが心身ともに健康でなけれ
ば、家族やまわりを守れない。そして遠く海の上を渡る家族に、そして
全ての人々に祈るという。

その日の夜、監督の家でユタカさんや島の男の人たち数人と飲んだ。
この島に住む人々は、みな謙虚に日々祈りながら生きていることを教え
てくれた。

島で2日間過ごした後、一旦東京に戻り仕事を片付けて、半日後、奈良
の天河神社に向かった。ここは驚くほど山奥にありながら、二千年以上
も前から祈りの場として、国内外から多くの人々が訪れている。旧暦の
七夕ご神事を手伝いながら、自らの内側を凛と清らかにさせようと、集
った人々と共に白作務衣に着替えて3日間過ごした。

そんな中で特に私が印象的だったのは、祭りの前日、準備の最中に村の
婦人会が作ってくれたカレーライスと茶粥を村の人々と共に食したり、
祭りの翌日、村の人々と共に片付けをして、一緒にスイカを食べながら、
豊かな時間を過ごせたことだ。

「聖地」とは祈りが大地に染み込み、それが日常となっている場なので
はないかと思えてきた。

久高島と天河。ともに厳しい自然の中にありながら、神々と暮らしてき
た人々が今も尚、その精神で生きている。

そんな祈りの地に生きる人々から、これからもきっと多くのことを学ぶ
ことになるのだろう。