出逢えたこと』

「あう、という文字を感情込めて漢字で書きなさい」

これは、かつて私が関西のシナリオ学校に通っていた時代に、校長の藤
本義一先生から授業で出された問題だ。
今はパソコンを使ってほとんどの文章を書くので「あう」と入力すると、
たちまち、合う・会う・遭う・逢う・遇う、と一挙に出てくる。

しかし、それぞれの「あう」はおのずと違う。
合うは、集まり調和するような場合や物とあった時に使い、遭うや遇う
は、災難や出来事にあう時に用いる「あう」だ。
前回「会うこと、出会うこと」というコラムを書いた。
会うとは人と人が「あう」ことではあるのだが、会うと出会うとではニ
ュアンスが微妙に違うというような内容だった。

そして、もっとニュアンスが違うのが「出逢う」だろう。
出逢いは、運命的な出会いを指すように思う。
そう、その多くは恋愛。

恋愛。
このテーマは、生死と共に人間のみならず生き物全てにあてはまるテー
マだろう。
男が女を、女が男を、また人によっては同性同士だってある。
直に恋に陥り、いつも誰かと恋愛をしている人もいるだろうし、生涯た
った一人の人だけを愛し続ける人もいるだろう。

私は99年の11月、17年間の結婚生活にピリオドを打ち離婚した。
人間的に温かな人だったし、子供たちにとっても良い父親だったと思う。
しかし、互いに少しずつ価値観が変わり、気がつけば全く別々の価値観
を求めていたのだろう。信頼しあっていたはずなのに、価値観の違いか
らパートナーとしての修正が困難になっていた。
もしかすると、お互い本来結ばれるべきパートナーと違うのではないか。
私は元夫に、その思いを率直に伝えた。
彼も同意見だったようだ。
長年一緒に暮らしてきた情や子供たちの問題もあり、かなりの心の痛み
を伴いはしたが、私たちは離婚。

それから私の東京での暮らしが始まった。

人との出会いとは、本当に不思議なものだ。
私はインターネットを通じて、3年前ある科学者と出会った。
同い年ということもあり、最初は気楽な友達、という感じだった。
が、いつしか出会いは出逢いに変わっていた。
東京で事務所を構えた時も、仕事で嬉しかった時も傷ついた時も、子供
の反抗期で悩んでいた時も、癌にかかって手術をした時も、いつも彼は
隣でただ静かに見守っていてくれた。
3人の子供たちも全て丸抱えで受けとめてくれる彼のキャパシティの広
さに、私は絶対かなわないと思う。

仕事も物事の捕らえ方も両極端。右脳と左脳、ソフトとハードのような
私たちだが、人間としての価値観だけは驚くほど似ている。
やっと、私は自分本来のパートナーと巡り逢えたのだろう。

2003年4月29日。みどりの日に私たちはささやかながら結婚式を挙げる。
高2と中3の娘二人はベールガールとして、中1の息子はリングボーイ
として快く挙式に立ち会ってくれることになった。
きっと生涯忘れられない日となることだろう。

出逢わせてくれた神様に、ただただ感謝の限りだ。