■『8月15日に思う』 | |
今年も8月15日がやってきた。
そう、終戦記念日。
今から58年前のこの日、日本は降伏条件などを含めたポツダム宣言に受
諾したことを天皇陛下がラジオ放送で流して、厳しく辛い戦争が終わっ
た日だ。以後、この日は平和を祈る日となった。
戦後の混乱期も過ぎて、日本が高度成長し始めている頃に生まれた私に
とって、終戦といっても、さしたる思いも持っていなかった。
しかし大人になった今、戦争と平和という意味を深く考えるようになっ
た。
人はいつから、己の利の為に他を征服していく動物になってしまったの
だろう。人類の長い歴史の中で、幾度も多くの血を流し、傷つけあいな
がら、いまだにその次元に留まり、また愚かな傷つけあいが続く。
戦争とは、その文字が表す通り、戦い争うこと。
どうして互いを理解しあい、尊重しあうことができないのだろう。
先日、神社本庁の方が事務所にやって来られ、様々な話の流れから、神
道と戦争の話になった。
かつて私は、国家神道は先の大戦に加担した重大な責任があると思って
いた。だから、戦争責任者を奉っている靖国神社に、国家の責任者が参
拝に行くという行為には納得がいかないと思っていた。
しかし、神社本庁の方とお話をして、自分の考えの浅さと無知に気がつ
いた。
靖国神社は明治維新、幕末に倒れた兵士の御霊を慰めるために建立され
たお社で、以後、日本人が何らかの事変や戦争で命を落とした御霊を祀
り、先の第二次世界大戦の戦没者の数を合わせると約250万の御柱が祀
られている。
その戦没者のほとんどは、今の私たちと同じように暮らし、家族を守っ
て生きてきた一般市民だ。
そんな市民が祀神になっているので、関東大震災の時には、困っている
人々を救済するために、敷地内に銭湯まで建てられたそうだ。
もともと神道とは、いわゆる宗教というものとは異なっていると思う。
岩や木や様々な八百万の神々が私たちを見守ってくれているという、ア
ミニズム的な考えがもとにあり、その八百万の中に人の魂もあるという
考え方のように思う。
誰も望んで戦地に向かった人などあるまい。
しかし、愛する人を守りたい一心で、戦地に向かわなければならなかっ
た現実。
戦地に駆り出される兵隊さんの家族は、家の仏壇のご先祖様に無事を祈
り、近くにある神社で神様にお願いしたはずだ。
しかし、時の権力者がその象徴として、天皇陛下を現人神として祀り上
げた時代だったのではないだろうか。
古事記の見解は、それぞれのところも多いと思うが、私自身は天皇陛下
は天から降りてきた神様の子孫だとは思わない。
しかし、天皇陛下は、ご自身の祖先である「皇祖皇宗」の御霊をお祀り
し、一心に国民一人ひとりの平和を祈ってきたことには違いないだろう。
日本は先の大戦で、アジアの国々に対して起こしてきた事実については
謝罪するべきかもしれない。今なお、それが原因で苦しむ人がいるのだ
から。それを言い出したら、原爆を落としたアメリカにも謝罪してほし
い。だが、戦争においてどこの国が悪いだの誰が悪いだの、言い出した
ところで仕方がない。
唯一いえることは、もう二度と戦争という愚かで大きな過ちは起こさな
いよう、世界中の人々と共に意識を持って進まなければならないのだと
いうことだ。
政治にも、もっと関心を寄せて、軍国的な流れを起こしそうな政治家は
選ばないように気をつけなければならない。
靖国神社に祀られた人々も、きっと子々孫々である私たちが平和な世の
中で暮らせるよう祈っていることだろう。
愛する人々を愛する国を守ろうとして散った尊い多くの命に、お盆でも
ある今日、もういちど手を合わせたいと思う。
合掌